至極当たり前のことだが寺の朝は早い。そのことを楓が思い知ったのは、引っ越し翌日の朝のことだった。遠くの方から何か唄のようなものが聞こえてきた。一定のリズムの中、抑揚をつけたその韻律はまだ寝ぼけ眼の楓の体の中に浸透していき、あまりの心地よさに思わず、とろんと眼をつぶりかけたが、その音に子供の少し高い声が混じっているのに気づいた楓ははっと目を覚ました。楓は急いで着替えると廊下に飛び出した。本堂の方からは朝の勤行に励む三蔵と制托迦の声が響いていた。楓は自分も負けてられないとばかりに腕まくりして、庫裏の方に向かっていった。
ちょうど六時を過ぎると、朝の勤行が終わったと見えて三蔵と制托迦が広間の方にやってきた。そこにはご飯にみそ汁、とろろにお浸しと立派な朝食が出来上がっていた。
「おはよう」庫裏から顔を覗かせた楓が元気よく言った。
「おはようございます! 楓殿」負けじと制托迦が元気よく挨拶した。
「よく、起きれたな。しかもこんなに立派な朝食を準備していたとは――いや、びっくりしたよ」三蔵は膳に並べられた朝食を眺めながら、感心したように言った。
「どう、少しは見直した」
楓は焼いたばかりのししゃもを乗せた皿を運びながら、少し自慢げに顔を輝かせた。
「三蔵、腹が減ったから、さっそく朝餉にしよう」
そう言う制托迦はもうお膳の前にちょこんと座っていた。
「せっかく楓が作ってくれたものだからな。それじゃありがたくご馳走になろうか」
そう言うと三人はお膳の前に座り、手を合わせて食べ始めた。
「でも、やっぱりお寺って、朝が早いんだね」お浸しに箸をつけながら、楓が言った。
「――そりゃそうです。お山では私などは三時には起きて、勤行に励んでいたものです」
制托迦がご飯を掻き込みながら言った。
「そうなんだ――ねえ三蔵、私もっと早く起きた方がいいかな?」
「いや、楓は高校生だし、何も寺の時間に合わせなくたっていいさ。まあこうして、たまにうまいご飯を作ってくれれば、そりゃ、うれしいけどな」そう言うと三蔵はにこっと笑った。
「えっ、私の作ったご飯、おいしい?」
「ものすごく、美味しいです! 楓殿、お替わりはできますか」そう言うと、制托迦は空になった茶碗を勢いよく差し出した。
「まあ、そういうことだな」三蔵はそう言うと、自分も笑いながら空の茶碗を差し出した。
朝食が済み、三蔵はちょっと外に出てくると言ってふらと外に出ていったので、楓と制托迦は庫裏で食器を洗っていた。実は昨日から気にかかっていたことがあった楓はちょうど良い折と、隣で茶碗を洗っている制托迦に思い切って尋ねてみた。
「ねえ制托迦さん、昨日さ、お山では三蔵を呼び戻せとか、大変なことになっているって言っていたけど、それってどういうことなの?」
「楓殿は青龍寺を代々お守りいただいている小楢家の方ですので、私のことはどうぞ制托迦と呼んでください。ところでお尋ねの件ですが、ことはお山の秘事に関わることですので、私も滅多なことは申せませんが、少しだけお話ししますと、この青龍寺という寺はこの地の抑えとして造られた寺で代々強力な密教僧がこの地に赴き、その任にあたってきたのです」制托迦は皿を洗いながら答えた。
「それは以前、三蔵に聞いたことがある。前の円仁和尚も凄い密教僧だったって」
「左様です。そして今、円仁和尚が封じた力は日増しに弱まっているため、新たな封じを行う必要があるのです。それを任せられたのがあの三蔵なのです――なのにあいつは、新たな封じを施すどころか、逆に封の一つが破られるに至ってしまいました」
「制托迦、それは違うわ!」楓は真剣な顔で制托迦の方を向いた。
「三蔵は自分の命を賭して、封を破った男から私の命を守ってくれたし、この地に住むものたちが心静かに眠れるように自分の命を捧げているのよ」
楓の真剣さが伝わったのか、制托迦も楓の方に顔を向けると、真剣な顔でしゃべり始めた。
「封を破った鬼島という男と三蔵が死闘を演じ、九死に一生を得ながら、その男を打ち倒したということはわたくしも聞いております。問題はそのことではないのです――お山の方々が問題視しているのは、三蔵がお山に仕えるものの使命を忘れているのではないかということです」
「お山に仕えるものの使命……」
「そうです、わたしたちお山に仕えるものは、皆ことごとくお山のために尽くさねばならないのです。もっとはっきり言えば、お山に敵対する者たちを打ち倒すことがわたくしたちに課せられた使命なのです――それを三蔵は忘れているのではないかということなんです」そう語る制托迦の顔は、童子とは思えないほど険しいものであった。
寺の裏手の林の中に三蔵とスサノオがいた。ここは空がぽっかりと空いて、ちょうどよく光が入り込み、枯れ草が積み重なってクッションのようになり、休憩するには誠にちょうどよい場所で、スサノオが庭にいないときは大抵ここにいることを知っていた三蔵が、スサノオと話をするために歩いてきたのだった。
「どうした、スサノオ。昨日から様子がおかしいのではないか」三蔵は何事か沈思していたスサノオに声を掛けた。
「――三蔵よ、あの制托迦と呼ばれる童子は、本山からお前の様子を探りにきたのであろう」スサノオは三蔵に厳しい目を向けると重々しく言った。
「――ああ、そのとおりだ」
「俺は、お前の想いと覚悟のほどは信じているし、今でも、その心に嘘偽りはない」スサノオの声が高くなった。
「よく、分かっている」
「ならばお前はあの童子をどうする気だ――いや、お前は今後本山とどう向き合うつもりなのだ。お前の理想とするところは、やつらとは相容れぬ。お前は確実に近い将来、やつらとぶつかることになる。そうなればやつらは容赦はせぬ。お前は本山を敵にして、あの童子とも闘わなければならないことになるのだぞ」
三蔵はスサノオの言葉を聞くと、ふっと微笑んだ。
「スサノオよ。俺には本山も蝦夷も関係ない。俺の中にあるのはただ、癒えぬ魂を持つものたちを安らげ、衆生を救う道を求めることだけだ。それが俺が一生をかけてなさんとする菩薩行だ」
「――俺は依然、お前に言った。お前の菩薩行を最後まで見届けさせろと。だが今は違う。お前の菩薩行をなさしめるためであれば、俺はこの命を捧げてもいい。だからこそ、俺はお前の菩薩行を邪魔するものを許さぬ。本山がお前の敵になるのであれば、俺はあやつらを嚙み砕く」
スサノオの目は恐ろしいほど真っ赤に光っていた。
「――スサノオよ、この先どうなっていくかは俺自身、はっきりとは分からぬのだ。だが、これだけは信じてくれ、俺はお前を心底から信じているし、お前を裏切るようなことは決してない。だから同じようにお前も俺を信じてはくれぬか」
スサノオはじっと三蔵を見つめた。
「三蔵よ、俺はお前を信じている。だからこそお前に伝えなければならないことがある――昨日、第二の封が破られ、かつてこの地を支配していた国津神の一人が蘇った。その神の名は荒覇吐」