その日の午後、青龍寺からほど近いある農家で男の変死体が二つ発見された。どちらの死体も首が丸ごと無くなっており、小さな村に起こった怪事件として大騒ぎになっていた。
「三蔵聞いた!」学校から息せき切って帰ってきた楓が三蔵を見るなり言った。
「ああ、檀家の方が昼頃いらして教えてくれたよ」三蔵は落ち着いた声で言った。
「……また、恐ろしいことが起こるの?」楓は不安そうな顔つきで聞いた。
三蔵は楓の肩に手をかけて、にっこり笑った。
「楓は真実を知る権利がある。だからお前には嘘や隠し事は決してしない。今回のことは、確かにこの地に眠るものたちの仕業だが、楓やこの地に住む人たちの身に危ういことが起こることは決してないから、心配しなくていい」
「……わたしのことじゃない」楓は小さくつぶやくと、まっすぐに三蔵の顔を見た。
「わたしのことなんかじゃない……私は……私は、あなたのことが心配なの」
楓の体全体から溢れんばかりの想いが伝わってきたが、三蔵はにこりと笑い、安心させるように言った。
「こんなことになったのは何か原因があるはずだ。俺はこれからスサノオと一緒にちょっとそれを探ってくるが、日が暮れるまでには戻ってくる。だからその間にうまい晩御飯を作っておいてくれないか――あ、酒の準備も忘れないでな」
楓は三蔵の言葉を聞くと、少し気が楽になったのか、
「わかった、今日は三蔵の好きな鰹の刺身にするから早く帰ってきてね」と言って笑った。
「そうか! ならすぐに戻ってこないとな」
「まったく、三蔵は単純だね――ところで、制托迦は」
「あいつなら、昼頃、ちょっと出かけてくるって言って、ぶらっと出て行ったけど、晩飯までには戻ってくるってさ」三蔵はそう言って、楓に笑いかけた。
三蔵とスサノオは円仁和尚が封をなした地に立っていた。そこには石を置いた小さな祠があったはずだったが、今や跡形もなく、下にあった台座も亀裂が走り二つに割れていた。
「荒覇吐――かつてこの地を治めた古の神だな」三蔵がつぶやいた。
「そうだ、蝦夷の人々の信仰を集め、この地で大いに栄えたが大和の神々によって滅ぼされた国津神の一人だ」
「昨晩、村で人が殺されたようだ――それも、このものが原因か」
「おそらくな。だが荒覇吐がこの地に住むものたちを意味もなく殺すとは思えん。おそらく、ここにあった礎石がなくなっていることと、そいつらが何か関係しているのだろう――」スサノオはそう言うや、割れた石をじっと見つめた。
「――見ろ、ここから囂々と力が噴き出している」
「確かにな……この力は大黒力か」三蔵が眉を顰めて言った。
「ああ、天竺の神であるシヴァに由来する強大な力。今では仏によって倒された異教の神々の力と蔑まれているがな……」スサノオが低い声で言った。
その時だった。草むらの中から誰かが立ち上がり、大声で叫んだ。
「おい、三蔵! その犬はなんだ」
三蔵は一瞬はっと身構えたが、相手が制托迦だと知ると、
「なんだ制托迦か、びっくりさせるな」とほっとしたようにつぶやいた。
「お前、どこかに出かけるとか言っていたが、こんなところにいたのか」
「話をはぐらかすな、なんだその犬は! 返答いかんによってはただでは済まさぬぞ!」
「こいつはスサノオといってこの地で出会った俺の友だ」三蔵は笑って答えた。
「友だと——人語を話す犬など、妖異の類ではないか。しかもスサノオだと! スサノオと言えば、天照大神によって高天原から追放された異端の神ではないか。古書はスサノオを天照大神の弟などと誤魔化し歴史をあやめてしまったが、その実は国津神の頭ともいうべき我らの大敵、大和に敵する最大の禍津神ではないか――やはり、お前は異教の神に心を遷してしまったのだな、この裏切り者!」
「早まるな制托迦、まずは俺の話を聞け」
「もう、お前のことなど信じられぬ! この大馬鹿やろう!」
制托迦はそう叫ぶと、そのまま走り去ってしまった。
「――だから言ったろ、どうするのだ」スサノオが脇に立つ三蔵に声を掛けた。
「あいつは俺の弟みたいなものだ、話せばきっと分かってくれるさ」
「だといいがな……」スサノオの言葉が三蔵の耳に虚ろに響いた。
陽もとっぷりと暮れた頃、制托迦は荒覇吐を封じていたあの祠を再び訪れていた。あの後制托迦は、このまま本山に駆け戻り三蔵の裏切りのことを報告しようと思ったが、国津神を抑える封印が解かれてしまった今、何を置いてもまずは新たな封じをなすことが本山に使える密教僧たる自分の使命と、この場所に戻ってきたのだった。