新月の夜、漆黒の闇に包まれた森の中で、わずかにぼんやりと光を放つ一画があった。 そこは荒覇吐を封じていた祠であった。荒覇吐を封じていた礎石は既になく、真っ二つに割れた台座石だけが寒々しく残っていた。その割れた台座石の隙間から黒い煙のようなものがゆらゆらと天に昇っていた。
ちょうど深夜の二時を過ぎた頃であろうか、突然、巨大な音が天に鳴り響いた。
「――金神が天に宿った」
重苦しい声が地を震わせるように聞こえてきた。そして、その声が合図であるかのように、天から赤黒い光が祠の上に差し込んできた。差し込む赤黒い光と昇り立つ黒い煙が空中で交わり、どす黒い大気が周囲に広がっていった。
ほほほほほほほほほほほ、甲高い声が木々の中から聞こえてきた。
くっくくくくくくくくく、笑いを堪えているような声が暗闇の中から漏れ出てきた。
ふふふふふふふふふふふ、くぐもった笑い声が大地の底から鳴り響いた。
すると木々の間から、四本の手にそれぞれ鋭利な剣を持ち、青白い肌をした悪鬼がゆっくりと姿を現した。
「カリマよ、スサノオに食いちぎられた手は完全に癒えたようだな」地の底から聞こえるその声に応えるように、カリマは、ほほほほほと物凄い微笑を浮かべた。
すると、どす黒い闇の中から別な鬼が現れた。
「アスラよ、ようやく目覚めたか」
三つの顔と六つの手を持ち、赤黒い肌をしたその鬼は、くっくくくくと笑いをこらえる様に大きな肩をゆらした。
「闇に生まれた我が眷属たちよ、出でよ! ようやく、我らが無念を晴らすときがきたぞ」
いつの間にか、底に敷いてあった台座石は粉々に砕け散り、地面にぽっかりと穴が開いていた。その穴の中から、次から次へと異様な風体のものたちが現れた。
ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ
ひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ
ははははははははははははははははははははは
数え切れないほどの笑い声が森中を震撼させた。
その声が急に収まった。カリマにアスラと呼ばれた悪鬼が膝をついた。二人が頭を下げる先に、ざんばら髪の間から角を生やし、大きな牙をむき出しにした荒覇吐が傲然と立っていた。その後ろには数えきれないほどの異形のものたちが立ち並んでいた。片手に巨大な斧を持った荒覇吐は後ろを振り向くと自分を仰ぎ見るものたちを見渡し、大音声で叫んだ。
「我らが待ち望んだ時がようやく来た。長年我らを虐げてきた仏に反旗を翻すのだ。今宵、まずは手始めに、仏の先兵どもが潜む寺に攻め込む。彼奴等は結界を敷いて、我らを通さんとしているようだが構うことはない、全軍を持って踏み破れ、仲間の屍を超えて進め。その身を砲弾にして穴をあけろ。そして彼奴等を一人残らずぶち殺し、仏殲滅の狼煙をこの地にあげるのだ!」
その声はうなりのような歓喜の声にかき消された。そしてまるで森が動いているかのような黒い集団が青龍寺の方に動き出した。鬼、妖怪、あやかし……仏によって、悪とされた全てのものたちが行進を始めた。その顔はどれも怒りに満ち、涙を流し、喜びに溢れていた。
「――さあ、カリマにアスラよ、我らも行くか」大軍勢が意気高く進んでいくのを満足そうに見ていた荒覇吐が言った。
「――今度こそ、仏に勝ちましょうぞ」アスラと呼ばれた悪鬼が荒覇吐を見上げて言った。
「――このカリマ、あなた様のためなら、どこまでもお供いたします」カリマが荒覇吐を慕うように言った。
荒覇吐は、二人を見つめた。
「お前たちには、長きに渡って苦労を掛けた。今こそ我らの尊厳を取り戻すときだ――さあ、いよいよ、この荒覇吐の出陣だ!」
カリマとアスラは、静かに頭を下げた。
国津神たちの進撃が始まる一時間前。全ての準備を整えた三蔵は廊下を進み、楓の部屋の前に立っていた。
「楓、準備は整ったぞ」
ところが、中にいるはずの楓から返事がなかった。
「……楓、いるのか。開けるぞ」そう言って、三蔵は戸を引いた。
三蔵が部屋に入ると、楓はベッドの上に座っていた。
「どうした?」
「……お願い……隣に座って」楓は三蔵を見ると、小さくつぶやいた。
「――どうした」三蔵は、楓の隣に座って優し気な眼差しを向けた。
「……私、ずっと前からあなたのことを知っていた気がする。だから、わかる……私は、あなたのことが好きだって、あなたと一緒に死ぬんなら何も怖くないって……分かってるの……でも、もう一人の自分がいて、その子はまだ震えているの、怖くて怖くて、たまらないの……ちゃんと、あなたの口から言って欲しいって望んでるの……私のことを好きだって……」そう言う楓は少し震えていた。
三蔵は、楓を包み込むように抱きしめた。
「……俺もお前をずっと昔から知っていた気がする……楓、初めて会った時からずっと、お前は俺を支えてくれた。俺の命を救ってくれた。そしてお前の方が先に気づいてくれた、俺たちの縁を……ごめんな、気づくのが遅くて、でも、もう決して離しはしない――俺は今日、死地に赴く、それは救われぬものたちを救いたいがためだ。だが俺はもう一つ、別な目的のために戦う。それはお前を守るためだ――楓、俺はお前が好きだ。愛している。ずっとずっと愛している。例えこの身が朽ちようと、俺は必ずお前のもとに戻ってくる」
楓の目から涙がこぼれた。母を亡くし、父を亡くした。だが楓は一人ではなかった。自分を愛し、本当に必要としてくれている男がいた。それは三蔵も同じだった。親に捨てられ、養父を失くした。だが三蔵も決して一人ではなかった。自分のことを理解し、心から愛してくれる女がいた。何かの縁で運命づけられた二人の男女がこの地で再び巡り合った。楓も三蔵も決して孤独ではなかった。
三蔵は自分の唇を楓の唇に重ね合わせた。目の前にいる楓という女性の全てが愛おしかった。唇を重ねながら、楓を強く抱きしめた。楓の心臓の鼓動が伝わってきた。楓も手を三蔵の背にまわして強く抱きしめた。三蔵の心臓の鼓動が伝わってきた。互いの心臓の鼓動が、どくんどくんと一つのリズムになった。二人はいつまでも体を離そうとはしなかった。
「スサノオよ、こうして、お前とともにいると、まるであの巣伏の戦いを思い出す」縁側に寝そべったスサノオに向かって阿弖流為が言った。スサノオがふっと笑った。
「あれは、会心の戦であったな。敵軍四千をわずか八百の手勢で打ち破った」
「お前は渡河する敵に一番に掛かっていった。まったく昔から、抑えの効かぬやつだった」
「お前こそ、大将のくせにいつも先頭きって走っておったではないか」
そう言うと、二人はふふと笑った。
「まさか、また二人でこうして戦えるとは思いもよらなかったわ」感に堪えぬとばかりに阿弖流為が言った。
「しかも、今度の敵は国津神だというのだから、我ながらあきれ果てるしかない」
「――そうだな」スサノオが遠くを見るように言った。
「本当にいいのか?」阿弖流為がスサノオを見た。
「……もう決めたことだ」
「封を解くそうな」
「ああ……」
「……スサノオよ、一つだけ言っておく。俺はお前がどうなろうと、お前の味方だ」
「その言葉、心に刻み付けよう」スサノオが阿弖流為に視線を戻すと、力強くそう言った。
廊下の方から足音がした。二人が振り向くと、三蔵が凛とした面持ちで戸口に立っていた。その顔を見て、スサノオがふっと笑った。
「もはや思い残すことはないようだな」
三蔵はスサノオと阿弖流為を見て、にっと笑った。
「いや、まだ名残はある――なあ俺たちは、まだまだ死ぬわけにはいかぬぞ。明日のために、今日を生き抜かねばならん」
「そうだな、俺も大和のやつらに一泡喰わせるまでは、まだまだ死ねんからな」阿弖流為もそう言って笑った。
「俺とて同じだ、お前らより先に死ぬつもりはない」スサノオも不敵に笑った
あらゆる準備が整った。楓は既に本堂に設置した護摩壇に座り、祈りを始めていた。そして、四方を守るように、スサノオ、阿弖流為、三蔵、そして三蔵の命により南の神社に向かった制托迦がいた。青龍寺に敷かれた曼陀羅が完成していた。あとは敵が来るのを待ち受けるだけだった。