三蔵は残った三面六臂の悪鬼の前に立った。
「お前の名は?」
「我が名はアスラ、貴様らの間では阿修羅と呼ばれるものだ」アスラは傲然と言った。
「俺の名は三蔵――悪いが容赦はせぬぞ。お前たちは恨みを晴らさんがためだけに、あえて仏の道に歯向かおうとしている。その心の奥に巣食った悪念を消滅させるためには、そこな鬼たちのごとく、心と肉体もろとも一度完全に滅せられなければならぬ。その先にこそ救いがあるのだ」
「たかが人間風情が我に説教などと、しゃらくさいわ! 我らは救いなど求めぬ、仏の道もいらん、我らの誇りを貫くためなら、鬼にも悪鬼にもなろう。人間ごときが我の相手を為そうなど、片腹痛いわ!」
そう言ったかと思うと、アスラが手に持った剣を振り下ろした。だがその剣は別な剣によって遮られた。いつの間にか三蔵の前には憤怒の顔をした不動明王が立ちはだかり、怒気を湛えてアスラを睨みつけていた。
のうまぁくさんまんだぁ ばあざらだんせんだん まあかろしゃあだぁ そはたやぁうんたらたあ かんまん
三蔵は真言を唱え始めた。真言が空気を震わすほど、不動明王の背後に立ち上る滅障の炎は高く立ち上り、赤みを増していった。
「なるほど不動明王の真言か、面白い。だが我はただの鬼ではない。仏と長年、渡り合ってきたものだ。人間ごときが呼び出したまやかしの偶像では我に勝てん!」
そう言うと、アスラは六本の腕を自在に動かし、目に見えぬ速さで剣をふるった。その剣をしかと受け止めた不動明王は手に持った羂索をアスラに投げつけた。だがアスラは四本の腕を使って羂索をしかと掴んだ。二人の神は身じろぎもせず睨み合った。
カリマと阿弖流為も既に剣を合わせていた。流れるようなカリマの攻撃を阿弖流為は的確に防ぎ、機を見て反撃の一撃を繰り出した。阿弖流為の鋭い突きがカリマの腹を掠めた。 カリマは自分の腹から流れ出た血を手でぬぐうと、凄まじい笑みを浮かべた。
「――貴様、人間のくせになかなかやるではないか。そうでなくては張り合いがない。いいか、最後にはその身を八つ裂きにして、その肉を喰らってやるからよおく覚えておけよ」
「強がりを言えるのは今のうちだぞ。俺は蝦夷の男、阿弖流為。鬼だろうが、羅刹だろうが、お前らごときに負ける男ではない」
「ほざくな!」カリマは怒りに燃えて阿弖流為に飛び掛かっていった。
二組の戦いが繰り広げられている中で、スサノオと荒覇吐はまんじりともせず睨み合ってた。
「――まさか、貴様を相手に戦うことになろうとは」スサノオが低い声で言った。
「――それはこちらの台詞だ。だがお前もわかっているはずだ、今のお前では到底、この荒覇吐には勝てぬことをな」
「それは、分からぬぞ」
「ならば死ねい!」
荒覇吐は巨大な斧をスサノオに振り下ろした。
こうして三対の戦いが始まった。それはまさに神同士の戦いだった。
その頃、楓は本堂の護摩壇の中で必死に祈りを続けていた。何かがぶつかるような音がしたり、雷鳴のような轟音が鳴り響いたのが聞こえてきたが、楓はいつしか耳を傾けることをやめていた。ひたすら祈り続ける。それが楓に与えられた使命だった。
三蔵が言ってくれた。私の祈りが皆に力を与える、私の祈りが救いをもらたすと。だから、もう迷わなかった。どんなことになろうとも祈り続けよう。三蔵と三蔵のために命を捨てることを誓ったスサノオと阿弖流為と制托迦のために祈り続けよう。もし、この本堂にまで敵が押しよせてきたとしたら、それは彼らが死を迎えたということ――ならばその時は運命をともにするだけ。ただそれだけのこと。
大吾を失ってから、楓は死を恐ろしいと思わなくなった。あそこにいけばいつでも大好きな父さんが待っている。そう思うだけで喜びに似た感情が湧き上がってくるのだった。 だから楓は全ての迷いを捨て、ひたすら祈りに没頭していた。もしそこに誰かがいたら、そのものは見ただろう。暖かい光を放ちながら、穏やかな微笑みを浮かべた観音菩薩が楓に重なるようにして、祈りを捧げている姿を。その祈りは熾烈な戦いを戦っている三人の勇者に滾々と力を与えていた。そしてその祈りはもう一人の勇者にもしっかりと届いていた。
制托迦は青龍寺の南に位置する神社に辿り着いていた。古めかしい神社で屋根も柱も壁ももろぼろに朽ちていた。制托迦は扉を開けて本殿に入った。そこも荒れ果て、干からびた蜘蛛の巣が所々に掛かっていたが、本堂の真ん中に設置している麻袋だけは比較的新しいもので、袋の表は封じを意味する梵字が書かれていた。
いったい、ここは何を祀る神社なのか。三蔵はそうしたことは一切、制托迦には教えてくれなかった。ただ時が来たら合図を放つ、それを機に神社の中のご神体を破壊しろとだけ教えられていた。さきほどから青龍寺の方角に異様な音や光が発せられているのは分かったが、まだ合図と思しきものは上がっていなかった。
制托迦がぐるっと本堂を見渡すと奥の壁の上に額縁が飾っているのが見えた。薄暗くて、よく見えないので制托迦は手に持っていた松明を掲げた。なにやら難しい字が並んでおり、制托迦はさらに顔を近づけた。その文字を読み終えた制托迦は思わず、松明を落としそうになった。そこには信じられない文字が並んでいた。そこには「素戔嗚尊」と書かれていた。
荒覇吐の攻撃は強力かつ速かった。かすっただけで致命の大事となるほどの斧の攻撃が間断なく繰り返された。スサノオはなんとか攻撃をかいくぐり、飛び掛かる機会を伺っていたが、なかなかその機会は訪れず、防戦一方であった。さきほどの鬼どもの総攻撃により、スサノオも疲労しており、また以前カリマとやりあった時の怪我もまだ完全には癒えておらず、スサノオの動きはいつもと比べればだいぶ鈍っていた。ただ三蔵にも阿弖流為にもスサノオを助けるほどの余裕は無かった。それぞれが相手しているアスラもカリマも尋常の敵ではなかった。一進一退の攻防が続き、スサノオを気遣う余裕はなかった。
荒覇吐は己が優位に立っていることを自覚していた。なぜなら今のスサノオでは到底自分に勝てないことは分かりきっていた。だが荒覇吐は油断するような男ではなかった、哀情に流されるひ弱な男でもなかった。荒覇吐はちょこまかと動き回るスサノオを見て、一気にけりをつけるべく、斧で捉えることはやめて巨大な目を見開いて真言を唱え始めた。
おおむ とりやむばかん やじゃあまへえ すがんでぃん ぷしゅてぃ ぶぁるだなむ うるばぁあるかみばぁ ばんだなあ むりってぃよおる むくしいや まあむりたあとぅ
その声を聞いたスサノオも、すかさず真言を唱え始めた。
おおむ とりやむばかん やじゃあまへえ すがんでぃん ぷしゅてぃ ぶぁるだなむ うるばぁあるかみばぁ ばんだなあ むりってぃよおる むくしいや まあむりたあとぅ
全く同じ真言だった。だが明らかに荒覇吐が唱える真言の方が力強く、覇気にあふれ、大気を震わせていた。荒覇吐の唱える真言の波がスサノオの周囲に漂ってきた。スサノオは必死になって真言を唱えたが、もはや抗するべくもなかった。突然、スサノオの体全体が締め付けられた。声を出すこともできず、呼吸することもできなかった。なんとか体を動かそうと思ったが、強力な大黒力が己を縛し震えることさえできなかった。
スサノオの前に荒覇吐が真言を唱えながら近づいてきた。大きく開いたその目は強固な決意に満ちていた。荒覇吐は斧を振りあげると一言だけ言った。
「――さらばだ、古き友よ」
その言葉が身動きできないスサノオの脳裏に広がった。そして荒覇吐の斧はその言葉をも断ち切るようにスサノオの体を一刀両断に断ち割った。スサノオは大地に崩れ落ちた。