上賀茂神社は京の北に位置する由緒ある大社で都の鎮護社として長く朝廷の尊崇を受けてきた社であった。秀郷はすっかり日がくれて、暗くなってきた境内の中をすたすたと歩き、社殿の前にたつと何を思うのかしばらく沈思し、その後、厳かに参拝した。参拝が終わるとほっとしたような顔を見せた秀郷だったが、境内の方を振り返ると、その顔には不敵な笑みが浮かんでいた。
「鬼というのも存外、暇なものよな。こんな老いぼれの跡を日がな一日、金魚の糞のようにくっついてくるとはな」秀郷が闇に覆われた社に向かって言い放つと、どこからか声が聞こえてきた。
「……藤原秀郷よ、貴様によって、どれだけ俺たちの仲間が殺されてきたことか。その恨み、ようやく果たすべき時が来たようだ」
「そうであったの。いつ来るかと待っておったが待ちくたびれたぞ」
「まったく、貴様も八十を超えて、なんともみっともないじじいになりおったことよ。おい、今日はただでは殺さんぞ、貴様に殺されたものたちの恨みをお前の骨の髄に一つづつ叩き込んでなぶり殺しにしてやるから覚悟することだ」
「そりゃ楽しみなことじゃ、だがわしも一人で死ぬのは寂しくてな。どうだ一緒に三途の川を渡りたいやつはおらんか。この秀郷と一緒に地獄参りとしゃれこもうではないか。将門や純友も待っておろうよ」
「うれせえ! おしゃべりはこれまでだ! お前ひとりで地獄へ行け!」
その声とともに、いきなり暗闇から鬼が飛び出してきた。鬼は手に持った太い棍棒を秀郷の頭めがけて振り回した。だがその棍棒は空を切り、逆にシャッと空気を切るような音がした。鬼は何が起こったのか分からないような顔をしていたが、急に苦悶の表情を浮かべるとそのままばたりと倒れた。秀郷は瞬時に体を沈め、腰の刀を抜いて鬼の体を見事に一閃していたのだった。秀郷はすぐに立ち上がると闇に向かって刀を構えた。
「さあ遠慮はいらんぞ、どんどんこいよ。貴様らを一匹でも殺せば、それだけ頼光殿の手間が省けるというものだからな」
その姿勢、声の張り、面構えは、とても八十を超えたものの姿とは思えなかった。それは、かつて天下一の武人と言われた藤原秀郷そのままの姿であった。
頼光は鬼に深手を負わせられた貞光の様子はいかがと部屋を覗きにいったが、死んだように眠っている貞光の隣で大盛りの飯をかっくらっている金時を見ると思わず苦笑した。
「金時よ、お前は相変わらず元気でいいなあ。ところで貞光はどんな具合だ」
金時は相手が頼光だと分かると、すぐに椀を置き、ほっぺたにご飯粒をくっつけながら急いで答えた。
「いや、今は死んだように眠っておりますが、峠は越したと思います。何しろ昼間は見舞いに来た馴染みの女に会わねばならぬとだいぶ手こずらせたくらいですから」
「そうか、それは良かった」頼光はほっと安心したように貞光を見たが、金時がまるで兄弟のように付き添っている姿を見て、ふと前から疑問に思っていたことを尋ねてみた。
「ところで、お前たちは初めからだいぶ仲が良さそうだったが、なにか理由でもあるのか」
金時は頼光にそう言われた途端、頭をひねり始めた。
「そういや、なんで俺がこんなにこいつの世話を焼かなきゃいけなんだっけな……なんでもこいつの生国と俺の生国が近いというくらいで、別に大した付き合いでもなかったような……ああ、そうだ! こいつは天下一の男になりたいっていうんで、それで意気投合したんじゃなかったかなあ」
頼光はそれを聞くと微笑んだ。
「確かにお前も、綱と立ち会う時に似たようなことを言っていたな。するとお前たちが仕官したのは鬼を倒すためではなくて、天下一の男になるためか」
「そうかもしんねえなあ。でも貞光の野郎をこんな風にするなんて、鬼もなかなか強えみたいだから、まずは鬼を一匹残らずやっつける。その後で、また綱どんと立ち会うことにするかな」
「まったく、お前にはかなわんわ」そう言って頼光がははと笑った。
その時だった。廊下に家人が走ってきた。
「殿! 火急の用事でございます。只今、藤原秀郷様の家人が飛び込んでまいりまして、現在、秀郷様、上賀茂神社にて鬼に襲われており、至急ご加勢いただきたいと必死の形相で訴えております!」
頼光はその言葉を聞くや否やいつもの頼光とは思えぬ鬼のような形相になり、「馬引け!」と一言言うと、飛び出していった。その後を追うように金時も走り出していた。
秀郷の衣装は既に真っ赤であった。秀郷は既に五体の鬼を倒していたが、暗闇になれた目には、自分の周りを数え切れぬほどの鬼が取り囲んでいるのが見えた。
また鬼が襲ってきた。巨大な長剣を握った鬼だった。秀郷は自分に振り下ろされる鬼の剣をなんとか太刀で防いだ。だが鬼の力は尋常ではなかった。刃がぎりぎりと悲鳴を上げていたが、秀郷の筋肉も同じように悲鳴をあげていた。
「どうした。それでおしまいか! このままだと刀ごと貴様の首を打ち折ってしまうぞ! ふん、これが名にしおう藤原秀郷かよ、年を取るというのは惨めなもんだな。ほれ、ほれ! もうすぐ、首にあたるぞ!」鬼がひひと嘲笑った。
確かに秀郷の体力は衰えていた。昔は五十人力とも百人力とも言われたものだが、既に息が上がり、腕が重くなっていた。
……こりゃ、そろそろいかんか……だが、まだ死ねん……頼光殿が来るまでは死ねん……五平に命じたからには死ねんぞ……
秀郷はうおおおと暗闇に響き渡るような叫び声を放つと鬼の剣を押し返し、そのまま目にも見えぬ速さで刀を払った。にやりと笑っていた鬼の首がそのまま地面に落ちた。だがそれを見た別の鬼が今度は二人掛かりで襲い掛かってきた。どちらも七尺近くあり、それぞれ巨大な棍棒と斧を持っていた。秀郷は棍棒を持った方の鬼の方に向かうと、不意に体を落として相手の懐に潜り込み、相手の脛を切った。その一刀は見事鬼の足の腱を断ち切っていた。鬼は思わずすっころんだが、秀郷はその上から、一気にうなじ目掛けて刀を突き刺した。鬼は断末魔の悲鳴を上げるとそのまま息絶えた。
それも束の間、もう一方の鬼が振りかざした斧が秀郷の背後に迫った。秀郷は前に跳んで避けようとしたが、一瞬遅れた。背中に焼けるような痛みが走った。だがすぐに構えなおし、斧を振るう鬼の攻撃を紙一重でかわすと、鬼の首目がけて刀を振り上げた。刀は鬼の首筋を完全に捉えていた。鬼は何か言いたそうにしていたが、そのままばたりと倒れた。
七匹の鬼が倒れた。だが秀郷も限界であった。特に今背中に食らった傷は相当深かった。まだ気が張っているから痛みはないが、血がだらだらと噴き出て、下帯を濡らしているのを感じた。
……じじいになると、赤子に帰るというが、これではおしめの世話にならんといかんようだな……
秀郷が用心深く次の相手を待っていると、今まで奥にいて、じっと秀郷の戦いぶりを眺めていたひと際大きい鬼が前に出てきた。その鬼は八尺近くもあり、虎の皮で作ったような陣羽織を羽織って、その頭には二本の角が生えていた。
「……八十を超えてなお、その戦いぶり。さすがは藤原秀郷というべきか。お前の戦いぶりに敬意を表し、この俺がお前に引導を渡してくれる」
「ほう、お前がわしに引導を下すとな。では、せっかくだから名前くらい聞いておくかよ」
「俺の名は虎熊童子。大江山の偉大な主君に仕えるものの一人」
「貴様も四天王とかいうものの片割れか。ならばちょうど良い。最後にそなたの首を取って、閻魔への土産となそうか」
そう言うや、秀郷は再び腰を下ろして、相手の足元を狙った。 相手の身の丈が八尺ともなれば、少し腰を下ろせば、すぐに相手の向う脛が見えた。秀郷渾身の一刀だった。だがその一刀は空を切っていた。なんとその巨漢の鬼は秀郷の一刀を宙に飛んでかわしたのだった。予想外の展開に一瞬、頭が混乱したが、上から来る圧倒的な気を感じて、必死に体をよけた。だが背中に深手を負った秀郷の体は秀郷の思い通りには動いてくれなかった。物凄い圧力が上から伸し掛かるのを感じた。なんと虎熊童子は手刀でもって秀郷の鎖骨を叩き割り、そのまま肺まで押しつぶした。秀郷はふらふらと二三歩、うしろによろよろと下がったが、突然、口から大量の血が噴き零れた。
……五平よ、どうやら、わしもここまでのようじゃ……戦いばかりの日々であったが、なんとも楽しかったことよ……
最後に秀郷が見たのは何だったであろう。だがその顔は死に行くものとはとても思えぬほど安らぎに満ちていた。これが平安の世にその名を馳せた天下無双の英雄、藤原秀郷の最後だった。
