面白い小説を書きたいだけなんだ

素人作家がどこまで面白い小説を書くことができるか

【平安を舞台にした和風ファンタジー】『異形の国』 (二十九)

 内裏の奥深く、常には使われることのない一角に男たちが集まっていた。中央には護摩壇が敷かれ、護摩壇の一番前には広沢の寛朝僧正が座し、その後ろには各寺の名だたる僧たちがずらりと並び、一心不乱になにやらの真言を唱えていた。その少し離れた後ろに安倍晴明と賀茂保憲が控え、さらにその後ろには吉平の姿もあった。また護摩壇を横に見るように右大臣藤原兼家をはじめ朝廷の権力者たちがずらりと並んでいた。都を騒がす鬼を鎮めんための方策として右大臣藤原兼家から帝に進言された大元帥法の修法が今まさに執り行われんとしていた。 

 宵の頃から始まった修法は既に一刻を過ぎ、外はとっぷりと暗くなっていたが、護摩壇の中に立ち昇る炎が部屋の中を明るく照らしていた。寛朝僧正の額にはすでにびっしりと汗が滲んでいたが、それでも一時たりとも声を止めることなく、ひたすら真言を唱え続けていた。 

 のうぼう たりつ たぼりつ はらぼりつ しゃきんけい しゃきんめい たらさんだんおえんび そわか  

 のうぼう たりつ たぼりつ はらぼりつ しゃきんけい しゃきんめい たらさんだんおえんび そわか 

 のうぼう たりつ たぼりつ はらぼりつ しゃきんけい しゃきんめい たらさんだんおえんび そわか 

 齢六十を超えるというのに、寛朝僧正の声は壮者のように張りがあり、その野太い声が薄暗い室内に響いていた。そしてまるで寛朝僧正の声に合わせるように炎がゆらゆらと揺れ動いた。 

 のうぼう たりつ たぼりつ はらぼりつ しゃきんけい しゃきんめい たらさんだんおえんび そわか 

 のうぼう たりつ たぼりつ はらぼりつ しゃきんけい しゃきんめい たらさんだんおえんび そわか 

 のうぼう たりつ たぼりつ はらぼりつ しゃきんけい しゃきんめい たらさんだんおえんび そわか 

 寛朝僧正の声が一層大きくなった。それに合わせるように炎がまるで龍の如くに天井まで立ち昇った。脇で見ていた公家衆たちは炎が天井に届かんとするのを見て、驚きのあまり一瞬腰を上げかけたが、寛朝僧正たちが身動き一つせず真言を唱え続けているのを見て、ごくっと息を飲んで再び腰を降ろした。寛朝僧正の眼は爛々と光り、炎の中に何かを見ているかのようであった。それは後ろに控えた賀茂保憲、安倍晴明、そして吉平もまた同じであった。彼らだけが見えていた。彼らだけが炎の中におられる方が見えていた。そこには大蛇を体に巻き付け、鬼神の如き憤怒の顔をした一面六臂の明王の姿があった。これこそ仏を守護する明王たちの総帥である大元帥明王であった。 
 
 洞窟の中と思しきところで、一人の男が酒を飲んでいた。 

 そこは大変広いようではあるが、男の傍に灯明が一つあるだけで周囲は闇に覆われているため、どこが壁やら天上やら見当もつかなかった。そんな中で男はまるで浴びるように酒を飲んでいた。ふと男の目の前の暗闇がゆらりと動いた気がした。男は顔を上げ、杯を片手に闇を見据えた。すると闇の中からゆっくりと鬼神の如きものが進んできた。憤怒の相、一面六臂、首には巨大な大蛇を巻き付けて、背中からはめらめらと炎が立ち上っていた。 

「……何の用だ」男は座ったまま、低い声で言った。 

「貴様が大江山に住まう鬼どもの首領か」張りのある野太い声が洞窟に響いた。 

「……そうとも言えるし、そうでないとも言える」 

「貴様、名はなんという」 

「名か……名はとうに捨てたが、確かに名がなくては不便は不便。とりあえず、酒呑み童子とでも呼んでくれ」 

「貴様らのために京に住まうものが迷惑している。これ以上、貴様らの好き勝手にはさせん。今日は貴様の首をもらい受けるために参った」 

「それで、修法でそんなものを呼び出したかよ」そう言うと、ようやく男は立ち上がった。 

 男の背丈は六尺ほどで、確かに大きいことは大きいが八尺近くもある大元帥明王とは一回りも小さく、しかも鬼の象徴とも言える牙も角も生えておらぬため、傍目には人とまったく変わりなかった。だが男は目の前に聳える憤怒の形相をした明王を見ても、何の恐れも感じていないようで、まるで遊びでも始めるかのように笑みを浮かべた。 

「……いいだろう。酒の余興につきあってやる」 

 大元帥明王はじっとその男を見つめていたが、かっと目を見開くと右手に持っていた刀で男に切り掛かった。だが振り下ろさんとしたその腕は男の手によって軽々と掴まれた。ぎりぎりと歯ぎしりしながらさらに力を込めたが、掴まれた手はそれ以上ぴくりとも動かすことができず、やむなく今度は左手に掴んでいた斧を振り下ろした。だがその左手も男の手に掴まれた。二本の腕からの攻撃を悉く封じられた大元帥明王は顔を真っ赤にして男に抗しようとしたが、どうしても動かすことができない。ならばと大元帥明王は残りの四本の腕で男の体を締め始めた。

 筋骨隆々たる大元帥明王の筋肉がさらに盛り上がり、男の体がぎりぎりと鳴り始めた。そして大元帥明王の体から燃え上がる炎が男の体をも覆い始めた。だが男は相変わらず平然とし、未だ笑いを浮かべていた。 

「無駄だ……仏の力だろうが、陰陽の業だろうが、呪では我は倒せん」 

 男がそう言うや、何が起こったのか男の体がだんだんと月夜に照らされた鉄鉱石のように黒く照り輝き始めた。そして大元帥明王の手を掴んだ手まで黒く染まった瞬間、大元帥明王の手は瞬時に握りつぶされ粉砕された。 

 男は自由になった両手を大元帥明王の背中に回すと、今度は逆に大元帥明王を絞め始めた。力を入れているとはまったく思えないのに、男の腕はどんどん体に食い込み、見る見る大元帥明王の体を押しつぶしていった。大元帥明王、いや大元帥明王の目を通じて寛朝僧正や安倍晴明たちが見た最後の光景は、顔も完全に黒く染まった男の笑い顔であった。 
 
 洞窟の中に暗闇と静けさが戻っていた。灯明が一つあるだけの明かりの中で男は粉々に砕け散った大元帥明王の体を眺めていたが、その残骸はまるで霞のようにいつか闇に消えていった。男はそれを見ると何事もなかったように腰を降ろすと、脇においてあった杯を取り再び酒を飲み始めた。黒色に染まっていた肌はいつの間にか人の肌と変わらない色に戻っていた。 

 暗闇の中から足跡がした。男がちらと目を上げると茨木童子が現れた。茨木童子は男がいつものように酒を飲んでいるのを見ると安堵したように息をついた。 

「さきほど妙な気がこちらから漂うのを感じ急ぎ参りましたが、どうやら私の勘違いだったようです。お変わりない様子で何よりです」 

 男はそう語る茨木童子を見てにやりと笑った。 

「坊主どもが、我のところに明王を送り込んできたわ」 

 茨木童子はその言葉を聞いて一瞬絶句したが、慌てて周囲を見ながら尋ねた。 

「なんと! して、その明王とやらは、いずこに」 

「なにほどのこともない。ちょっと遊んでやったら、あっさりと消え失せたわ」男はそう言って杯をあおった。 

「しかし、ここに明王を寄越すとは、やつらもなかなか油断なりませんな」 

「なに、おそらくあれがやつらの限界であろう。陰陽の業だろうが、修法であろうが、そんなものでは我を倒せぬよ」男はふてぶてしく言った。 

「それを聞いて安堵しました――ところで、虎熊童子のことはお聞き及びでしょうか」 

「ああ、藤原秀郷を始末したそうな」 

「しかし、頼光という男、やはりただものではなかったようです」 

「そのことよ。源頼光、やはり我らの最大の敵はあやつと見える」 

「しかも、その手下どもには綱はじめ、なかなかの男どもが揃っているようです」 

「金熊童子に手傷を負わせた男は、碓井貞光とか言ったか」 

「はい、この男もなかなかの技をもっていました」 

「星熊童子によると、季武と申す巨漢の男も一条戻り橋で鬼をあっさりと打ち倒したようだな」 

「そのようでございますな。そしてその星熊童子が、あと少しばかり頼光の屋敷に行くのが遅ければ、金熊童子もやられていたかもしれません」 

「……金熊童子の傷はどうだ」初めて男が険しい顔になった。 

「ご安心ください。順調に回復しております。あと数日もすれば完全に完治しましょう」 

「……そうか……それは良かった」男は安堵したようにいった。 

 男はしばらく杯を持つ手を止めて何かを考えていたが、ようやく杯を口につけた。 

「……数日か、それまでには熊童子も戻ってこよう」 

「そう言えば熊童子の姿が見えませぬが、どこかに向かわせたのですか」 

「源頼光の一党の中に、妙な男が一人いると星熊童子が言っておってな、そのものの体からまるで我らと同じ鬼のごとき気が立ち昇っていたそうな。それで熊童子にいったいどの程度の男か様子を見にいかせたのだ」 

「道理で姿が見えぬはず――だが、あの女好きの熊童子のことですから、どこぞで女を誑かすなどして油を売っておるやもしれませぬな」 そう言って、茨木童子が眉をひそめた。 

「まあ、勘弁してやれ。あれはやつの道楽なのだ。我らとても、何か楽しみの一つもなければ生きている甲斐もなかろうではないか。そなたとて、渡辺綱との勝負をずいぶん楽しんでおったそうではないか」そう言うと男は笑った。 

「おからかいを……ですが、確かにあの綱だけは、この手で始末したく思っています」 

「さもあろう、そなたほどの男の腕を断ち切った男だからな――おお、そう言えば腕は完全につながったようだな」 

「もうすっかり元のとおりになりました」そう言うと、茨木童子は完全にくっついた右腕を感慨深げに見た。 

「お前は綱、熊童子は女、金熊童子は笛、みなそれぞれに生きがいをもっている」男が静かに言った。 

「……あなた様はなにが生きがいなのでしょうか」 

「俺か……俺は酒があればそれでいい。酒を飲みながら、月を眺めるだけで十分だ……ずっと、地の底におったからな……」

 そう語る男の顔にはなんとも言えぬ深い悲しみの影があった。茨木童子はそう語る男の前に膝まづくと深く頭を下げた。 

「わたしは、何があろうと、最後まであなたとともにまいります」 

 男はそう語る茨木童子をじっとみた。 

「……わしの行く先には、常に地獄がつきまとう。それでもついてくるか」 

「そうであれば、地獄の極卒どもを手勢に加えて、あなたさまの先軍といたしましょう」茨木童子はそう言うと、顔をあげて微笑んだ。 

「……そうか……面白い、ならばお前とともに、手始めに、この世を地獄に変えてしまおうぞ」男はからからと笑うと、杯をごくりと飲み干した。 

 



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