源頼光が大江山に向かうことを決めたのは自ら望んだものではなく、公家衆の度重なる要請によるものであった。修法にかけては天下第一と目されていた広沢の寛朝僧正肝いりの大元帥法が失敗に終わり、天下一と称された藤原秀郷まで殺害されたとあっては公家衆の狼狽えぶりは見るに耐えぬほどで、右大臣藤原兼家などは帝を補佐する重要な任があることなどどこかに忘れ果て、外に出るのも恐れて屋敷に引っ込んでしまったのであった。それだけならまだしも、日ごと源頼光を呼び出しては、なんとかしてくれ、このままでは娘の入内の用意もままならんと毎度泣き言を繰り返されるとあっては、さすがの頼光も覚悟を決めざるをえなかった。そんな折、帝からも招請の命があり、此度の鬼の件についての対策を下問されたのをよい潮と、近日のうちに大江山に鬼討伐に向かう旨上奏したのであった。
「頼光殿、少しよろしいか」
帝の前を辞し、屋敷に戻ろうと車だまりに向かおうとしたときだった。一人の男に声を掛けられた。頼光が振り向くと、そこには安倍晴明が立っていた。
「これは、安倍晴明様」頼光は慇懃に頭を下げた。
「いや、固い挨拶はぬきにしようではないか。そなたのことは息子吉平からもよく聞いておるでな」安倍晴明は親しみを込めて言った。
「吉平様には、私ごときもののためにお力をお貸しいただき、なんと感謝してよいやら」
「あんなものでも、わずかなりともそなたの役に立てばよいのだが」
「吉平様の類まれな胆力と衆を超える智謀は私にとって欠くべからざるものでございます。此度の鬼のこと、吉平様のご助力なくば、決して適うことはございますまい」
「そうであるか、あの吉平がの……親ばかと思われるかもしれぬが、そなたにそう言ってもらえるとはなんともうれしい限りじゃ」
古今随一の陰陽道の達人、鬼神さえも避けて通ると言われる安倍晴明であったが、この時ばかりは、なんともうれしそうに笑った。しかし、その顔はすぐに憂いを含んだものに変わった。
「此度のこと、おそらくそなたにとっては、不本意な決断であったと思う。本当であれば、もう少し時間をかけて敵を知った上で、攻めるか守るか、様々な策を講じることができたであろう――だが頼光殿、お恥ずかしい限りじゃが、これがこの国の実態なのじゃ、上辺は綺麗に着飾っているが、それだけじゃ。何か事があればただ震えあがって、神頼み、人頼み。こんなことでどうやってこの国の民草を守り得よう」
嘆じるように語った晴明だったが、少しばかり間をおくとどこか寂しそうな顔でぼそっと呟いた。
「……だが、そんなことをずっと思ってきたわしも結局、何も変えられなかった」
そう語る晴明の顔には藤原秀郷と同じく幾筋の皺が深く刻まれていた。
「わしも賀茂保憲殿も広沢の寛朝僧正殿も、藤原秀郷殿も、みんな同じじゃった。おかしい、おかしいと思っておっても、なんにも変えることができなかった。それどころか……お笑い下され、わしらはこんな都が心地よかったのじゃ、こんな都であってもどこかで愛おしく思っていたのだ」晴明はそう言うと頼光の顔を見つめた。
「頼光殿、そなたなら変えられる。いや、変えねばならん。今こそ、変えねばならんのだ。こんな国ではなく、力のあるものがしっかりと民のことを考えることができるまっとうな国に変えていかねばならんのだ」
「……晴明様」頼光が晴明の顔を見返した。晴明はそんな頼光の肩を掴んだ。
「頼光殿、こたびの相手はただものにあらず。大元帥法を執り行ったとき、一瞬だけ敵の姿を垣間見ることができたが、あれはただの鬼ではない」
「ただの鬼ではない?」
「……あれは異物だ。この世の理に反する異物だ。おそらくあのものが勝てば、この世のものは一木一草に至るまで滅びつくされるだろう――頼光殿、あのものに勝てるかどうかは、そなたの心にかかっている」
「……それがしの心」
「そう、そなたの心にあるものが、あのものの中に巣食った闇に勝れるかどうかだ――頼光殿、全てはそなたの心にかかっている。そなたがこの国をどうしたいか、全てはそれにかかっておるのじゃ」
晴明のすがるような瞳を見て、頼光が微笑んだ。
「晴明様、私は人が精一杯生きられる、精一杯生きるものが報われる世の中にしていきたいと思っています。そしてあなたや秀郷殿と同じように、わたしもまたこの国を愛おしく思っています。敵の力は計り知れません。いったいこの先、どのような試練が待ち受けているのか私もよく分かってはおりません。だがこの頼光、この国を思う心だけは誰にも負けませぬ。ですから、どうぞお心安らかにお待ちください」
頼光はそれだけ言うと静かに頭を下げて去っていった。去っていく頼光の頭上に日輪が輝いていた。その日輪は光り輝き、今まさに天中に昇ろうとしていた。
