その頃、東手にある沢伝いから山に入った碓井貞光は、敵に気づかれぬように足音を忍ばせながら頂上に向かっていた。頼光の策が見事当たったと見えて鬼の気配は一切なく、いささか物足りなさを感じるほどであった。
「この調子だと、西手から入った綱殿もうまく近づいていることであろうな。だが、ということはやはり表口に鬼が溜まっているということか――金時に鬼太郎の野郎、大丈夫かな。あいつら、どこか抜けているところがあるからな」
そんなことを呟きながら登っていた貞光であったが、ちょうど沢筋が切れた辺りに来た時、物凄い音と振動が山中に響き渡った。眠っていた鳥たちが慌てふためくようにばたばたと空に飛び立った。貞光は慌てて木陰に隠れ、何事が起ったのかとあたりの様子を伺った。しばらくすると地の震えも収まり、森は再び静寂が訪れた。
「なんだ今のは。地震にしちゃ、様子が妙だったが――まさか、殿の身に何か起こったのであるまいな」
貞光がそう呟いて、木陰から出た時だった。頭上から寂び寂びとした笛の音が聞こえた。その笛を聞いた瞬間、貞光の体は自然と動いていた。上空を見上げることなく、もんどりうって、その場から逃げた。間髪の差だった。もの凄い勢いで貞光がいた場所に何かが降ってきた。貞光はすぐに立ち上がると元居た場所に向かって刀を構えた。そこには一人の男が立っていた。金熊童子であった。
「よくぞ、かわした――お前ひとりということは、やはり綱とは別行動を取っているらしいな。ならば猶予はならん。一刻も早く貴様を倒して、綱を探さねばならん」緑色の目を光らせながら金熊童子が言った。
「誰かと思ったら、またてめえか。これも悪縁って奴か――だが、そう言うからにはまだ綱殿は見つけていないということらしいな。ならばこの場で貴様を倒せば俺たちはますます有利になるってわけだ。この間はとんだ邪魔がはいって、すんでのところで貴様を切り損ねたが、今日は誰も助けちゃくれねえぜ。今日こそ、てめえの首を掻っ切ってやる」
「それはこっちの台詞だ。仲間が助けに来なければ、貴様はあの場で死んでいた。運よく生き永らえたのだから、大人しくしておればよいものを、己の力量も顧みず我らに勝てると慢心しておるのが運の尽き。今日こそ、貴様を地獄へ送ってやる」
「なめた口きいてんじゃねえ! この糞野郎が!」
そういう否や貞光は金熊童子に切り掛かった。その太刀筋の速さは金熊童子も既に身をもって知っていたが、やはり神速、その太刀は紙一重の差で目の前を通り過ぎた。それさえもすでに太刀筋を知っていたからかわせたのであって、知らぬばそのまま顔を断ち切られていたに違いなかった。だが貞光は一刀をかわされたからと言って、攻撃を休めることなどなかった。上段から下段から、右から左から次々と刀を繰り出した。それを金熊童子はなんとかぎりぎりのところでかわしていった。
だが、切り掛かるたびに貞光は妙な違和感を感じ始めていた。いったいどうしたというのか、一刀をかわすごとに金熊童子の動作が素軽くなっているように感じられるのであった。事実、金熊童子の顔には余裕の色さえ感じられた。こんなはずではと、ますます勢いを増して切り掛かる貞光であったが、やはりその攻撃は完全に見切られるのであった。焦りを感じた貞光は、渾身の力を振り絞って、今までで最速とも思える速さで刀を振り下ろしたが、その一刀も見事に交わされていた。貞光は、はあはあと荒い息を吐きながら薄ら笑いを浮かべてこちらを眺める金熊童子を睨んだ。
「どうした、それで終いか。お前の自慢の太刀もその程度か」金熊童子が嘲笑うように言った。
「……きさま、何かの妖術か」貞光が低い声で言った。
「これは俺が持つ鬼の力。俺の目は一度見たものは決して忘れぬ。どんなに速い攻撃でも、一度見れば、俺の目はその動きを覚える。さあ、お前の太刀筋は完璧に見切った。今度は俺の番だぞ。お前は俺の動きを見極めることができるか」
そう言うや、今度は金熊皇子が襲い掛かってきた。金熊童子の二尺ほどの笛は先端が鋭く尖った戟でもあった。金熊童子はその戟を自在に操り、敵を切り刻むのであった。
「ほらほらほらほら! 遅い遅い遅い遅い!」金熊童子の叫びが森の中に木霊した。
短い得物であるからこそ金熊童子の動きにはほとんど無駄が無く、しかも貞光のかわす動きすらも見極められていると見えて、繰り出す一手ごとに、その刃は貞光の肌に迫っていった。胴当てをこする音がした。耳元を鋭い圧が襲い、ぱらぱらと小鬢が落ちた。刀を持つ二の腕に痛みが走った。そして首筋に衝撃が走った。前と同じように首筋を切られ血があふれ出していた。貞光の動きが一瞬止まった。それを見た金熊童子の緑色の目が大きく見開いた。
「これで終いだ、死ね!」
その叫び声とともに、金熊童子の振るった戟は貞光の胸に深々と突き立っていた。
