頼光たちが大江山に到着した頃、京の頼光の屋敷では居残った吉平が祈祷の準備に取り掛かっていた。今夜は上弦の月。頼光たちが秘密裏に出発した望月の日から数えて四日目、予定では今夕頼光たちは先発した綱たちと大江山の登り口で落ち合い、そのまま大江山に攻め入る手筈になっていた。その頼光たちのために祈りを捧げ、わずかなりとも力を送りたい。そう考えての祈祷であった。そんな折、祈祷に必要な祭壇や供物の準備を指示していた吉平のもとに、一人の家人がなんとも申し訳なさそうな面持ちで寄ってきた。
「お忙しいところ大変申し訳ございません。実は今ほど、正門の前で金時と貞光に会わせろといって騒ぎ立てる女が一人おりまして、そのようなことまかりならん、すぐに立ち去れとなんど申しても一向に聞く耳を持たず、終いには、やっぱりもう大江山に向かったんだななどと往来の真っただ中で物騒なことを言い始めるものですから、ともかく黙らせるために屋敷の中に入れたのでございますが、今度はその女、誰か話の分かる奴に会わせろ、さもないと都中に言いふらすぞと大変な剣幕で……あの、いかがいたしましょうか……」
家人が困り果てた様子で訴えるの聞いていた吉平だったが、何か思い当たることがあったと見えて、「ならば、私がその女に会いましょう」と笑みを浮かべながら答えた。
四日前の晩、店にやってきた金時、貞光、季武たちの相手をして、千鳥足で屋敷に帰る三人を見送った桔梗だったが、日が経つにつれて、妙に心が騒ぎ始めていた。噂では、次の満月の夜に出立するということで、当人たちもそれを否定しなかったから桔梗もそうだと思っていたのだが、どうにも不安が収まらず、終いには居てもたってもいられなくなり、親父の諫めも聞かずに身一つで頼光の屋敷の前に立ったのだった。だがいくら金時に会わせろといっても、門番たちはなんだか奥歯にものが挟まったような言い訳ばかりでさっぱり要領をえないので、根っからの短気な気性も相まって、往来の真ん中で喧嘩腰の押し問答となり、とうとう屋敷の中に押し込まれたというわけだった。そこでも散々悪態をついていた桔梗であったが、ともかくも上のものが会ってくれるということでようやく矛を収めるや、人が変わったように殿上人の屋敷を物珍し気に眺めていた。
しばらくぼんやりと部屋を囲っている御簾の中に座っていた桔梗だったが、ふと誰か人の気配があるのを感じた。慌ててその方を振り向くと、いつの間に入ったのか、部屋の隅に青い狩衣を纏った秀麗な面持ちの青年貴族が立っているのに気付いた。男は桔梗の様子を見るとにこりと笑って、優しい声で話し始めた。
「わたしは安倍吉平と申すもので、故あって、今この屋敷の差配を任されているものです。そなたはもしや金時殿や貞光殿が懇意にしているという居酒屋の娘御ではありませんか」
着ているものを見れば、明らかに自分などが直接話できるような身分の男ではないことは一目で分かったが、その男はそんなことはなんとも思ってないかのように、なんとも丁寧な言葉づかいで尋ねてきた。突然の出現といい、分不相応な言葉遣いといい、さしもの桔梗も意表を突かれたと見えて、いつもの口汚い言葉はどこへいったやら、なんとも丁寧な言葉で話し始めた。
「……お、お初にお目にかかります。私は桔梗と申しまして、この屋敷に仕える金時や貞光とは馴染みのものでございます……あの……その……どうしても金時に会って伝えねばらなぬことがあった故、身分もわきまえず参上いたしました……えっと、あの、金時に会わせてはいただけぬでしょうか」
吉平は桔梗が言い慣れぬ言葉を必死になってしゃべっているのを聞いて軽く微笑んだ。
「桔梗殿、あなたが金時殿や貞光殿と深い関わりがあることは聞いておりました。そんなあなただからこそ教えてさしあげるが、金時殿らは既に源頼光様とともに大江山に旅立たれた。おそらく今夕には鬼どもと死闘を演じることになりましょう」
吉平はまるで天気の話でもするように何気ない口調で言ったが、それを聞いた桔梗は思わず絶句した。だが吉平は相変わらず頬に笑みを浮かべたまま続けた。
「あなたが今日ここに参ったのも何かの力によって導かれたのでしょう。桔梗殿、わたしはこれから夜を徹して、あのものたちのために祈祷を行おうと思っています。そこで一つお願いがあります。どうかあなたもご一緒してもらえませんか。あなたの力をぜひともお借りしたいのです」
「わたしの力……でも、わたしはただの町家の娘です。金時たちのために一体何ができるというのでしょう」桔梗は戸惑うように言った。
「桔梗殿、おそらくあなたは金時殿たちのことが心配になり、やむに已まれずこちらにいらっしゃったのでしょう。それはあなたがあのものたちのことを深く思っておられる証なのです――人のことを思いやる心、それはどんなものより、陰陽師の呪いや武士たちの膂力などよりもはるかに強い力なのです。あなたがともに祈ってくれれば、あなたの想いは必ずや彼らのもとに届くでしょう。それは生死の中で戦うあのものたちにとって、何よりの助けとなるにちがいありません。そして……」
吉平はそこまで言うと言葉を止めた。そして、しばらく沈思していたが、つぶやくように言い足した。
「……おそらく、この力こそが、鬼の力に打ち勝つ最後の力となることでしょう」
吉平の言葉に最初は戸惑いを感じた桔梗だったが、いつか迷いは消え去っていた。もしかしたら、今、この瞬間にも金時たちが鬼と戦っている。自分たちを守るために戦っている。あの時金時は言ってくれた。
――いいか、何にも心配することねえぞ。安心してそこで待ってろ。鬼は俺が叩き潰してやるからよ――
だけど違うよ、金時。あんたにだけそんな苦しい役目を負わせるなんて、いやなこった。あんたが誰の子で鬼の力を持っていようがいまいが、そんなことはどうだっていい。わたしだって戦う。そうじゃなかったら守られる値打ちなんてない。それにわたしだって、わたしだって、ちょっとぐらいあんたの役に立ちたいんだよ。
桔梗の顔の中にある覚悟を見てとった吉平も心の中で呟いていた。
鬼どもよ、お前たちが私たち貴族がのさばるこの都を奪わんというのなら、そんなものはいつでもくれてやろう。だが人の心だけは、人を思いやる心だけはお前らの好き勝手にはさせん。それはなによりも尊いものだ。どんなことがあっても守らねばならぬものだ。頼光様、今より我らは我らの戦いを始めます。貴方たちとともに私たちも戦います。
