季武によって投げ飛ばされた虎熊童子は一瞬何が起こったのか理解できなかったが、正気に戻るとすぐに起き上がって周りを見た。すると、すぐ近くに季武が笑ってこちらを眺めているのが見えた。虎熊童子はそれを見ると不審な面持ちで言った。
「――なぜ、その棒ですぐ襲わなんだ。良い機会であったろうに」
季武はそれを聞くと、なんとも楽し気な顔になった。
「今、生まれて初めて、己が渾身の力を出したわ。なんとも気分がよいものだなあ――いや、お前となら、思う存分力比べができそうだと思ってな。そんな相手をあっさり殺してしまってはもったいなかろうが」
それを聞いた虎熊童子は最初その言葉の意味を捉えかねた。だが季武がまるで童子のように笑っている顔をみているうちに、思いもせぬことであったが自然と笑みがこぼれてきた。
「……そうか、ただひたぶるに力比べせんと言うか。そんな男がこの世の中にいたかよ――面白い! ならば、互いの力と力、どちらが上かこの場で決しようではないか」
「それこそ俺の望むところよ」
そう言うと、季武はなんと鉄棒を放り投げ、胴当ても上着も脱ぎ捨てて上半身裸となった。それを見るや虎熊童子も陣羽織を脱ぎ捨て半身裸となった。そんな二人を囲むように兵の死骸が輪のように広がっていた。それはあたかも、この国一番の力自慢を決める相撲の取組を待ち望む観客が如きであった。
月夜に照らされた空き地のど真ん中で二人の男がにらみ合う。 一人は季武、身の丈六尺の体はまさに仁王像さながらで、全身の筋肉が盛り上がり、体から噴き出た汗は雲気となり、上空に湯気のように立ち昇っていた。もう一人は八尺を超える巨漢の鬼、大江山四天王の一人虎熊童子。頭からは太い角が二本生え、その眦は張り裂けんばかりで、口からは太い牙が覗いていた。
季武と虎熊童子の二人は、互いの様子を伺いながらじりじりとにじりよっていった。そしてまさに両者が指呼の間となったとき、季武がまるで相手の手を求めるように片手を上げた。それを見た虎熊童子はにやりと笑い、その手に合わせるように自分の手を重ねた。そして今度は金熊童子がもう片方の手を差し伸べ、同じように季武が掴んだ。互いの指がしっかりと絡み合った瞬間、二人はまるで息を合わせたかのように力を込めた。まさに力と力のぶつかり合いだった。季武と金熊童子の体がさらに一回り大きくなったかのように見えた。
体中の筋肉が隆起し、その上を太い血管が浮き出て、全身をはい巡っていた。顔は真っ赤となり、互いに張り裂けんばかりの眼で相手を睨みつけた。巨大な力が組んだ両手を介して、互いの体を行き来した。
金熊童子がその巨体を生かして、季武の上にのしかかった。そのあまりの圧力に季武の両足はめりめりと地面にめりこんだ。上からのしかかる虎熊童子はまるで巨大な岩であった。その岩を押しとどめる季武の形相たるや、もはやどちらが鬼であるか分からぬほどで、目尻が切れて血が流れ落ち、食いしばるあまり歯は亀裂が生じ、みりみりと音を立てた。だがそれは虎熊童子とて同じ事であった。息を漏らす余裕もなかった。必死、まさにその一語であった。だが自分の下で耐えている季武を睨みつけているうちに、虎熊童子の脳裏にほとんど忘れかけていた古い記憶がよぎってきた。
虎熊童子は、この都よりはるか東の果てにある山深い地で生まれた。そこは山々が連なり、広大な森が広がる自然豊かな大地だった。その中で虎熊童子の一族は自然を友として暮らしていた。この一族は都に住む人々とは違い、みな毛深くみな体が大きく力が強かった。とりわけ虎熊童子の父は一族を束ねる長でもあり、その力の強きことは並びなかった。だがどうしたというのか、その子どもである虎熊童子は他の子どもより一回りも小さいのであった。この地では力が全てだった。子ども同士であっても力が強いものが一番偉い。一族の長の子どもだからなどといって遠慮するものなど一人もいなかった。
「どうだ、参ったか! お前なんてな、親父殿がいなけりゃ、生きてくことさえできねえ弱虫なんだよ」
虎熊童子より一回りも体が大きい子どもが虎熊童子にのしかかるようにして言った。だが、虎熊童子は必死になって耐えていた。
「こら、意地張るのもいい加減にしろ! 弱え癖に往生際だけは悪い、お前みたいなやつが一番困るんじゃ、おまえみたいな奴が長になるとみんなが迷惑するんじゃ! さっさと降参して、親父殿にいっとけ、おらあ弱いから、親父殿の後は継げませんとな!」
その声をかき消すように虎熊童子が吠えた。
「いやだ! おらがとうちゃんの後をつぐんだ。おらがみんなを守るんだ!」だが、その言葉を最後に虎熊童子はばたりと倒れた。
「大層なこといいやがった癖にそのざまか!」
「お前みてえな弱い奴がいったい誰を守れるってんだ!」
「てめえは、いっつも口ばっかりだ!」
虎熊童子の言葉にかっとなったのか、周りで見ていた他の子どもたちも群がってきて、地面に倒れた虎熊童子を踏みつけ蹴りつけ、散々な悪態をついた。
いつもそんな風だった。そんな風に体中痣だらけ泥だらけで、涙を流して家に帰ってくるのが常だった。だが一族の長である父は虎熊童子が帰ってくるのをみつけると裏山に連れていき、暮れる太陽を見ながら言ったものだった。
「虎よ、そんなに泣くな。お前はこのわしの息子じゃねえか」
「……でもよ、おらあ、とうちゃんのように強くねえしよ……いっつも、みんなに負けてんだぜ……おらあ悔しいよ……」そう言うと、虎と呼ばれた童が再び涙をぼろぼろ流した。父はそんな虎を見ると、にっこりと笑って大きな手で虎の頭を撫でた。
「お前は強くなる。わしなんかよりもっともっと強くなるぞ」
「……だって、おらあとうちゃんみたく大っきくねえしよ……」
「虎よ、体が大きいから強いのではないぞ、本当の強さってのは、心の中にあるんだ」
「心の中?」
「ああ、お前は自分よりでかい相手にも、自分より強い相手にも向かっていくじゃないか、その勇気こそが強さなのだ。本当の強さとはそういうことなのだ。お前は既に誰にも負けない勇気を持っている。その勇気が今お前の体の中で渦を巻いている。その勇気がもっともっと伸びようと思って、逆にお前の体にまだ伸びんでいいと言っているんだ。だが虎よ、今度はその勇気がお前の体をでっかくしてくれる。お前の勇気に匹敵するほどの体になれと励ましてくれる。だからお前は誰よりも強くなるぞ」
「ほんとかよ、とうちゃん、おらあ、ほんとうに強くなれるか」虎が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
「あたりまえじゃねえか、お前は俺の息子だ。虎よお前は強くなる。この国で一番強い男になるぞ!」
父はそう言って夕日に向かって大声で叫んだ。すると、彼方の山々からその言葉が木霊となって帰ってきた。それを聞いた虎もなんだかうれしくなってきた。そして自分も大声で叫んだ。
「おらあ、強くなってやる! もっともっと強くなってやる! 天下一の男になってやる!」
その言葉が再び木霊となって帰ってくるのを、二人は笑いながら聞いていた。
だが、そんな平和は長くは続かなかった。突如、この地に大和の大軍が押し寄せたのだった。
古来、西方から勢力を拡大してきた大和朝廷は、東方の地やそこに住む人々をあずま、あずまえびす、蝦夷などと呼び、恐れとともに忌み嫌ってきた。神武の東征、倭王武の侵攻、日本武尊の東夷など朝廷が東方に攻め込んだことは歴史書にも数多記されており、平安の御代に坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷に赴き、蝦夷の大将、阿弖流為を捕らえて都に連行し、その首を斬ったのはこの時代からわずか百年ばかり前のことであった。
虎の故郷が襲われたのもこうした侵攻の一つであったのだろう。敵は何の前触れもなくいきなり襲ってきた。何の備えもしていない村々に対して、千を超える朝廷の兵が攻め込み、家屋に火をかけ、田畑を踏みにじり、老人子どもは斬って捨て、女子は嬲りものにした後に悉く殺された。虎の父がその侵攻に気づいたときは既に村々が飲み込まれ、大勢は決しかけていたが、それでも寡兵をもって敵にあたり、その戦いぶりは大和の兵が驚き慌てるほどで、反撃されるや恥も外聞もなく、ひたすら逃げ去るのであった。だがそれはまさに蟷螂の斧であった。彼らが敵を追い散らしている脇で多くの村々は焼かれ、多くの人々が殺された。そしてとうとう虎の父たちも孤立無援となり一人倒れ、二人倒れ、最後は数えるほどしか仲間がいなくなってしまったが、この地を守ることを誇りとし、命を懸けていた虎の父は、仲間と共に最後の突撃を行い、そしてあえなく散っていった。虎が愛したこの地は、大和の侵略者によって蹂躙されたのだった。
虎は一人、山野を彷徨っていた。既に三日三晩何も食べておらず、頭は朦朧とし、体力は尽き果てていた。死にたいと思った。生きていることに何の意味も見いだせなかった。兄弟を連れて逃げろと父から命じられた虎だったが、追っ手に阻まれ、一人また一人と弟を殺され、今や生き残っているのは虎ただ一人であった。いったいいくつの山を越えてきたろう。故郷を離れて、幾日が過ぎたのか知る由もなかった。そして、とうとう力尽きた虎はばたりと倒れた。どれくらい時間がたったのだろう。虎の頭に声が響いてきた。その声はこの世のものとも思えぬほど暗く低い声だった。
「……虎よ……お前はこのまま死んでも良いのか。あのものたちに復讐してやりたいとは思わないのか」
虎熊童子がかすかに目を開けると、目の前に燃えるような赤い光に包まれた何者かが立っていた。
「……とうちゃんか、とうちゃん生きていたのか……」虎はかすれるような声で呟いた。
「虎よ、お前の父は大和のものたちに殺された。やつらはお前の父の首をさらして、こう言ったそうだ。『このもの、この地の平和を乱す鬼どもの首領なり。よって帝の命により、成敗した』とな」
その言葉を聞いた瞬間、虎の中で何かが壊れ、何かが弾けた。虎はかっと目を見開き、目の前の男を睨みつけた。
「とうちゃんが鬼だと! おらあのとうちゃんは立派な人だった。やつらこそ、鬼じゃねえか! 勝手に人のところに入ってきて、散々、人を殺しやがって! 鬼だ、あいつらこそ鬼だ! 絶対に許さねえ、絶対に許さねえ! あいつら全員ぶっ殺してやる!」
「虎よ、その意気だ。大和のやつらを皆殺しにするのだ。悉く滅ぼしつくすのだ。我が手助けしてやる、大和を滅ぼす力を与えてやる」
「あんたはいったい誰だ」
「我か、我はこの地に集う悪念が凝り固まったもの、言うなれば鬼じゃ」
「……鬼……ふ、ふふふ、ふははは、こりゃ面白れえ、本当の鬼が出てきやがった。いいだろう、鬼になってやるよ。本当の鬼になって、奴らを皆殺しにしてやるよ!」
「ならば今からお前に力を授ける。強大な鬼の力をな。その力でお前の体は鬼の如くに大きくなる。さすればお前が欲していた剛力がその身に備わる。その力を持って、まずは丹波の大江山にいけ。そこには蘇った我ら鬼の首領がおられる。その首領とともに大和を滅ぼせ、大和の民を一人残らず、殺戮しろ!」
そういうや、その男は虎に近づいてきて体に手を当てた。その手はゆっくりと虎の体内に入っていき、そしてついにはその男の体全体が虎の中に飲み込まれていった。その瞬間、虎の全身が赤い光に包まれた。激痛が全身を襲った。体中の細胞が無理に引き延ばされているようであった。虎は苦痛のあまり転げまわった。あまりの痛みに声を出すこともできなかった。頭皮の一部がもりもりと蠢いた。そして頭皮をやぶって何かが突き出てきた。歯が全部抜け落ちた。そして新たな歯がめりめりと生えてきた。鋭い牙が口の中から飛び出した。表皮は焼け落ち、新しい皮が生まれ、そしてその皮もまたべろべろと溶けて、再び皮が生まれた。それを繰り返すうちに、表皮は真っ赤となり、体は信じられないほど巨大になっていた。そこにいたのは童であった虎ではなかった、鬼となった虎熊童子であった。
