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【平安を舞台にした和風ファンタジー】『異形の国』 (四十五)

 両手を合わせ、力比べを始めた二人だったが背丈の利もあり、必然的に虎熊童子が季武に覆いかぶさる形となった。だがそういう不利な状況にあっても、季武は必死に踏ん張って、容易に倒れることはなかった。虎熊童子はたかが人間ごときが、鬼である自分になぜこれほどまでに抗することができるのか分からなかった。ありえるはずがないことに苛立った。 

――なぜだ、なぜ人間ごときがこの俺の力に抗し得る。俺は最強の鬼となったはずだ。他の四天王、いや茨木童子様とて力だけならば、この俺には適わぬというになぜこの男は倒れぬ―― 

 虎熊童子の中では疑念が渦巻いていた。そしてその疑念とともに心の底に澱んだどす黒い炎が吹き荒れていた。 

――こやつは大和の人間、大和の人間は一人残らずぶち殺す、そう俺は誓ったはずではないか、こいつは敵だ、俺の大事なものをすべて奪った敵ではないか、そんなものどもに負けてどうする、俺は勝たねばならぬ、勝たねばならぬのだぞ!―― 

 虎熊童子の心の叫びと呼応するかのように、体が徐々に季武の上にのしかかっていった。季武はまるで天を支えるかのように両手を突き立て、のしかからんとする虎熊童子の下で必死になって耐えていた。季武の足は既にくるぶしのあたりまで地面にめり込んでいた。体はぶるぶると震え、顔は真っ赤に染まっていた。だがそれでも季武は倒れなかった。 
 
 季武はこれまで多くの力自慢のものと力比べをしてきた。郷里の馴染みの貞光とはことあるごとに喧嘩してきた。貞光もまた人並外れた膂力をもっていたし、動きの素早さや剣の技量では内心舌を巻くこともあった。だが純粋な力比べとなれば貞光であっても季武とは比べ物にならなかった。先日の相撲大会では播磨の鮫太郎という荒くれ物と手合わせしたが話にもならなかった。金時が無双力と戦ったときは金時という男の底知れぬ力に驚きを覚えたが、やはり自分より一回りも体が小さい金時が自分よりも力が強いとは思えなかった。一条戻り橋で初めて鬼を倒した時も、あまりのあっけなさに拍子抜けするほどであった。そしてここに来て、数え切れぬほどの鬼どもが掛かってきたが、季武にとっては赤子をあやすようなものでしかなかった。 

 こんなものか。俺の渾身の力を受け止めてくれる相手はこの世にはおらんのか。俺はたった一人なのか。そこには何か寂しさのようなものすらあった。そんな時にこの鬼と会った。今まで体の中に眠ったままであった力、生涯使われることはないかもしれぬと思っていた力、今、その力が生まれて初めて表に出る機会を得て、歓喜の声をあげて猛り狂っていた。

 一瞬でも息を抜けば虎熊童子の力に抗しきれず押し倒されてしまう。地面に倒される。そうなればこの鬼は自分の上にまたがることだろう。自分より力が強いものに上にまたがられるということは、そのものの拳を容赦なく顔面に食らうということだった。それは下からでは到底防ぎおおせるものではなかった。それはほとんど死を意味することだった。それは想像するだに恐ろしいことであり、季武とてそのことは十分に分かっていた。でもなぜか季武は恐ろしいと思わなかった。それだけではなかった。今まで感じていた鬼に対する怒りや憎しみすら消え失せていた。ただひたぶるに力比べする。今季武の中にある想いはそれだけだった。それは生死を超えたところにある境地だった。それは天に選ばれたものだけに与えられる境地であった。そして季武は少しづつ虎熊童子を押し戻していた。 
 
 信じられなかった。だが、それはまぎれもない事実だった。いまだかつてないほどの力を振り絞っているにも関わらず、季武の力は自分を上回っていた。たかが人間がこの鬼となった体を押し戻していた。なぜだ、なぜだ、虎熊童子は叫んでいた。そのとき、どこからか声が聞こえてきた気がした。 

――虎よ、体が大きいから強いのではないぞ、本当の強さってのは、心の中にあるんだ―― 

 それは、子どもの時分、自分より大きい子どもたちに痛めつけられ泣きながら帰ってきた自分をなぐさめてくれた父の言葉だった。虎熊童子は心の中で叫んでいた。 

――とおちゃん、こいつの方がおらあより強えってのか、おらあ、とうちゃんたちの無念を晴らすために鬼になったってのに、人間のこいつの方が強えってのか―― 

――虎よ、お前は恨みと怒りに飲み込まれて鬼となってしまったが、かわりに大事なもんを失ったぞ―― 

――大事なもん―― 

――そうだ、お前の中にあった一番大事なもん、おまえの中にあった勇気。それはどこにある、どこに無くしちまった―― 

――勇気なんかあっても、大和の奴らに勝てなかったじゃねえか、あいつらを倒すににゃ、鬼になるしかねえんだよ。恨みと怒りで身を覆うしかないんだよ―― 

――虎よ、おめえの本当の夢は天下一の男になることじゃなかったのか―― 

――天下一の男……―― 

――この男はただそれだけを目指している。恨みも怒りも忘れて、ただそれだけのためにお前と対している。虎よ、今のままじゃこの男には勝てんぞ―― 

――とおちゃん……おらあ、こんな身になっても天下一の男になりてえって思いが未だに消えねえんだ……それを思うだけで、何か心が震えてくるんだよ。とうちゃん、教えてくれ、どうしたら、こいつに勝てる、どうしたおらは天下一の男になれる―― 

――その答えはお前がよおく知っているはずだ。虎よ、自分を信じろ。お前の本当の力はまだその体の中に眠っている。思い出せ、あの時を思い出せ、お前の一番強い力を思い出せ、お前は天下一になれる。それをとおちゃんに見せてくれ―― 

 どこからか聞こえてきた声はいつの間にか消え失せていた。だが、その声の代わりに、何か別なものの声が聞こえてきた。それは季武の雄叫びだった。大地を轟かすような咆哮であった。 
 
 季武はついに虎熊童子の巨体を押し戻し、今度は逆に虎熊童子の上にのしかかり始めた。季武の肉体はもはや破裂せんばかりに脈動していた。その肉体は命そのものだった。今ここに生きていることの喜びをあらゆる細胞が叫び狂っていた。虎熊童子の片足がとうとう地面についた。そしてついに均衡のバランスが崩れた。季武の力に抗しきれなくなった虎熊童子の体が地面に倒れた。

 季武は倒した勢いそのままに虎熊童子の胸の上に跨り、手を振りほどくと渾身の力をもって顔面に拳を振り下ろし始めた。そうはさせじと必死になって両手で顔を守ろうとする虎熊童子であったが、季武の拳は大砲のように虎熊童子の防御の壁を打ち破っていった。虎熊童子の太い両手は真っ黒になり、骨は折れ、妙な角度に曲がっていった。そして小さな隙間ができると、季武はそこ目掛けて全体重が乗った拳を何度も何度も振り下ろした。物凄い音がした。ぬるぬるとした感触があった。鼻が折れた。歯が砕けた。眼窩が窪んだ。目玉が潰れた。虎熊童子の顔は血で真っ赤で、ほとんど見わけがつかなくなっていた。両手はもはやだらりと下がり、ただ打たれるだけであった。それなのに季武は拳を振るうことをやめなかった。その形相には怒りはなかった、ただ歓喜の表情があった。ただひたぶるに力を振るう。その喜びに酔い痴れていた。 
 
 ただ殴ることだけに意識を囚われていた季武だったが、不意にトラツグミの鳴き声が耳に響いた。まるで悲鳴のようなその鳴き声を聞いた季武ははっとして、自分の真下にあるものを見た。そこにあったのはもはや顔とは言えなかった。顔はもはや原形を留めておらず、頭蓋骨も砕かれ、血と脳漿にまみれた、ただの肉塊であった。よく見れば季武の拳も骨折して、擦りむけてしまった皮の間から骨が覗いていた。季武はふらふらと立ち上がると、なんとも寂しげな顔でそこにあったものを見つめた。 

「……俺はまた独りぼっちになってしまったのか」 

 季武がぼそっと呟いた時だった。突如、まばゆいばかりの光が虎熊童子の屍から放たれた。その光は、まるで虎熊童子の体を焼き尽くすかのようにどんどん光を増していき、終いには体全体が太陽のように光りだした。あまりの眩しさに季武は両手で目を覆い、体を反らした。どのくらいの間だろう。おそらくほんのひと時のことであったろう。気づくと、いつの間にか光は消え去り、森は再び暗闇に包まれていた。

 季武は一体何が起こったのかと、光にくらんだ目を虎熊童子の骸があった方に向けた。するとぼんやりと焦点が合わぬ視界の先に、人のようなものが起き上がるのが見えてきた。なんとか目をこらしてその正体を突き止めんとする季武だったが、焦点が合っていくに従って目は大きく見開かれていった。 

  季武の前には男が一人立っていた。だが、その男はさきほどまで死力を尽くして戦いあった虎熊童子とは体つきが違っていた。背丈は季武と同じく六尺ほどで髪はぼさぼさ、上半身裸で太い毛に覆われていた。肌地は浅黒く、そして少し幼さが見えるその顔には黒い瞳が光っていた。それは鬼の目ではなかった。それは人の目であった。 

「おまえは誰だ」思わず季武が問うた。 

 その問いに応じるかのように男は季武の方を見た。そして、何かを思い出そうとするかのように声を絞り出した。 

「……おれ、俺は……虎……天下……天下一……」

 男はそういいながら自分の顔を両手で撫でまわし、そして、つぶさに自分の体を眺めた。そして、手、足、顔、体が人のものであることを確かめると確信したかのように言った。 

「そう、そうだ、俺は天下一になると誓った。蝦夷の英雄だったとおちゃんに誓った。そうだ、俺は蝦夷の男、虎近だ!」 

 季武は、いったい何が起こっているのか分からなかった。だが、なぜだか急にうれしさが込み上げてきた。季武はまるで親友に再会したかのように優しく語り掛けた。 

「虎近とな……そうか、そうであったか、そなたは蝦夷の男であったか」 

「お前は大和の男か」虎近は満面に笑みを湛える季武を見て不思議そうに尋ねた。 

「俺か、俺は相模の生まれだ。あずまと呼ばれた板東に生まれた、ただの悪たれじゃ」 

「あずまの男がなぜ大和の味方をする」虎近が不審な顔で尋ねるのを見て、季武はにこりと笑った。 

「別に俺は大和に味方しているわけじゃない。それどころか、京に来てからこの方、あずまの田舎者よ、鬼の仲間よと、散々陰口を叩かれた。だから俺にとっちゃ、都が滅びようが滅びまいが、本当のところどうだっていい」 

「だったら、なぜここに来た」 

「俺は、ただ強くなりたかった。天下無双の男になりたかった。それだけを目指して生きてきた。だからここに来たのだ。ここにはえらく強い鬼がいるという。そんな強いやつと戦ってみたい。もしかして、そいつなら俺の中で悶え苦しんでいる力を受け止めてくれるかもしれん。そう思って来たのだ」 

 そう語る季武の顔には何の飾りもなく、ただ童子のような笑みだけが浮かんでいた。 

「それだけか」 

「ああ、それだけだ」 

 虎近はしばらく季武を睨んでいたが急にぶっと吹いた。そして、しばらく押し殺すようにしていたが、とうとう堪えきれず大声で笑い出した。それを見た季武もまた笑い出した。 

「そうか、お前もそうだったか。そうであったか。俺もそうだ、俺もそうだった」腹を抱えて笑いながら、そう言った虎近は、ようやく笑いを納めると、改めて季武に言った。 

「季武よ、さきほどは見事に負けてしまったが、もう一度勝負させてくれぬか。一人の男として勝負させてくれぬか。さもなくば俺は死にきれん。死に切れんで、本当の鬼になってしまうかもしれん。どうかこのとおりじゃ。俺につきあってくれぬか」 

 そう言うと、なんと虎近は地面にしゃがみこみ、両手をついて頭を下げた。季武はそんな虎近の背中を優しく叩いた。 

「そりゃ、こっちの台詞じゃ。俺はさっきもう二度とこんな勝負はできんのかと、生きることすら嫌になった。だがお前はもう一度俺の相手をしてくれるという。蝦夷の男、虎近よ。ただこの一時、ひたぶるに力比べしようぞ!」 

 こうして何の因果か一人の男に戻った蝦夷の男虎近と季武は再び相まみえることとなった。人は何のために戦うのか。正義か、怒りか、憎しみか、そうしたものに比べれば、この二人の男が戦う理由は児戯のようなものなのかもしれない。だがこの二人にとって、それはなによりも価値があるものだった。なによりも純粋なものであった。こうして力というものに惹かれた二人の人間の戦いが始まった。 

 



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