綱は頂上に迫ろうとしていた。もはや綱の心には迷いはなかった。頼光なら必ずやここにたどり着く。こんなところで自分たちの夢がついえるはずがない。ならば自分に託された役目を果たすのみ。それだけを胸に刻みつけ、一歩、一歩、頂上に向かって足を進めた。そしてついに大江山の山頂に到達したのであった。
上弦の月が夜空に綺麗に浮かんでいた。その月明かりが山頂の岩場にぽっかり空いた洞窟の入り口を照らしていた。中は真っ暗だったが、おそらくこの中に鬼たちの首領が潜んでいるに違いなかった。綱は覚悟を決めると腰からすらりと刀を抜いた。髭切の太刀が月明かりを浴びて怪しく光った。その時だった。穴の開いた洞窟の岩の上から、浪々と声が聞こえてきた。
牀前月光を看る
疑うらくは是地上の霜かと
頭を挙げて山月を望み
頭を低れて故郷を思う
綱の体が震えた。ゆっくりと見上げたその先には、槍を抱え感に堪えぬとばかりに月夜を眺める一人の鬼の姿があった。それこそ綱の宿敵であり、大江山に潜む鬼たちの中でも最強と謳われる茨木童子であった。秘めた思いでも吐露するように寂び寂びと吟じていた茨木童子だったが、最後の言葉をつぶやき終えると、憐れむように綱を見下ろした。
「……やはりお前であったか、綱……自身を囮に使うとは頼光もよほどの覚悟をもってしたのであろうが、それもお前という秘策あってのことであろう。己が命を犠牲にして時間を稼ぎ、その隙にお前が我らの主を討ち取らんとの魂胆であろうが甘かったな。この茨木童子の目をごまかせるとでも思ったか。囮となった頼光たちは今頃みな我が配下の手によって無残な屍を晒している頃であろう」
だが、茨木童子のその冷酷な言葉は綱の心を一気に燃え滾らせた。
「貴様の目こそ節穴のようだな。我が殿と剛勇並びなき男たちの力をその程度にしか量っておらんとはな――囮だと、囮など一人もいるものか! みなそれぞれが貴様らを貫く刃であり、鬼を喰らう羅刹だ。今にも貴様の仲間どもを討ち果たし、意気揚々とこの場に現れよう。さすれば貴様はたった一人。そんな口をきく余裕もなくなろう。だが心配するな。俺もまた羅刹の一人、仲間の手を借りて貴様を倒そうなどとは思っておらん。この手でもって貴様の首を挙げて見せる。さあ決着をつけようではないか茨木童子、貴様と俺、どちらが勝つか、今こそ、決する時だ!」
今、綱の胸にあるのは、頼光に誓った言葉だけであった。頼光の夢を邪魔するものはどんな大敵であろうが悉く斬って捨てる。ここに上ってくる頼光のために、この茨城童子は自分の手で討ち果たさなければならない。その熱い思いだけであった。
綱を見つめる茨木童子の中にもまた赤い炎が滾り始めていた。洞窟の奥に鎮座するあの御方を守らんとする想いにいささかの曇りもなかったが、この綱と対峙すると心が熱く燃えてくるのであった。そんな思いはとうに無くなったはずなのに、まるで浮き立つように心が躍るのであった。
茨木童子は洞窟の前にすたと飛び降りると綱に向かって槍を構えた。その槍は前回の戦いの際に綱の捨て身の攻撃により断ち割られたままで、三間ほどに短くなっていた。だが茨木童子にとっては、その三間の長さこそが己の真価を発揮できるものであった。相手にもならぬものたちを一気に屠るために造り上げた五間の槍。一振りで五人、十人と首を刎ねるために使っていた槍。しかしその槍では目の前にいる男と戦うには長すぎた。この綱と言う男を五間の槍で倒すことは至難であると前回の戦いで思い知らされた。綱の神速ともいえる太刀裁きを上回る突きを繰り出すには、この三間の槍でなくてはならなかった。右腕も取り戻し、ようやく己が真価を発揮できる機会がきた。そのことが茨木童子の心を浮き立たせていた。その体からは溢れんばかりの闘気が濛々と立ち昇っていた
二人は対峙した。綱は髭切の太刀を正眼に構え地に足が張り付いたように不動の姿勢を取っていた。一方、茨木童子は腰を低く落とし、槍を構えながら、じりじりとにじり寄っていた。このまま進めば自然、茨城童子が望む三間の間合いに至る。綱とすれば、その間合いに至る前にどこかで相手の懐に飛び込み、自分の間合いに持ち込む他なかった。だがむやみに飛び込めば、まさに茨城童子の繰り出す槍の餌食となろう。ぎりぎりまでひきつけて一気に迫る。それが綱の策であった。そんな互いの思惑が緊迫した大気の中で交錯していた。一寸、また一寸と茨木童子はにじり寄っていた。月夜の中で互いの顔がはっきりと見えていた。二人とも瞬き一つしなかった。互いの呼吸音が重なり、心臓の鼓動までも共鳴するように重なっていった。
天と地が静まり返った。二人の間が三間となったその瞬間、茨木童子が突き、綱は引いた。まさに一瞬、だがその一瞬の間に茨木童子は五弾の突きを繰り出していた。しかも、その突きは悉く綱の胴を狙っていた。一弾と二弾の突きを流れるように太刀で払い、三弾の突きは、後ろに引いたため胸当てには刺さったが肌には届かず、四弾と五弾の突きは空を切っていた。だが最後の突きを放った直後、茨木童子はさらに一歩踏み出し再び突きを繰り出していた。そして、今度はなんと六弾の突きが繰り出された。綱はさらに後ろに下がりながら、茨木童子の穂先を見極めんとした。最初の突きは太刀で防いだ。二弾の突きもうまく太刀で弾いた。三弾の突きは身をよじってかわし、四弾の突きはさらに身をのけぞらせ、五弾の突きは再び太刀でなんとか防いだ。だが六弾目の突きはかわせなかった。茨木童子の槍の穂先が横腹を抉った。どんという衝撃が走ったが、綱には躊躇する暇などなかった。綱は腹を抉られたにも関わらず前に出た。そして茨木童子の顔めがけて太刀を振るった。
腹を突かれ下がると思っていた茨木童子は、予想外の綱の攻撃に初めて隙を見せた。いや、腹を抉った槍を戻すより、綱の前に出る速さの方が上回っていた。髭切の太刀が顔めがけて飛んできた。かわすことはできないと瞬時に悟った。ならばと茨木童子は大きく目を見開き、目の前に迫る太刀筋を限界まで見切ろうとした。斬られるのはやむをえない。ならば最小限の傷で済ませるほかない。刀が顔面に迫った。それでも目を閉じなかった。切っ先が顔の右側に来ると見た茨木童子は左にのけぞり、少しでも距離を取ろうとした。刃が右の眼に迫ってもなお目を閉じなかった。ここが太刀の限界だ。そう確信した瞬間、右目から光が失われた。茨木童子は右目を犠牲にすることで、綱の攻撃を最小限の傷で食い止めたのだった。
茨木童子はそのまま後ろに跳んだ。綱も一旦引いた。茨木童子の右の眼は潰れ、血がたらたらと落ちていた。綱の横腹は抉られ溢れ出る血で真っ赤に染まっていた。だが二人ともそんなことを気にする様子もなく、互いに相手を睨みつけていた。最強を懸けた二人の男たちの戦いは始まったばかりだった。
