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【平安を舞台にした和風ファンタジー】『異形の国』 (四十九)

 表道では二つの戦いが繰り広げられていた。一つは頼光の代わりにこの場に残った金時と星熊童子との戦い。もう一つは卜部季武と虎熊童子、いや今や人の身に戻った蝦夷の男、虎近との戦いであった。 

 季武と虎近は、互いに上半身裸で向き合っていた。八尺近くあった虎熊童子の身の丈からすれば、今の虎近は六尺にも満たず、季武の方が大きくさえあった。だが季武の目には虎近の体は以前と変わらぬほど大きく見えていた。以前にはなかったまさに虎の如き猛気が虎近の体を大きく見せていた。

 二人はじりじりとにじり寄った。さきほどと同じく手と手を合わせての力比べかと季武が思ったその瞬間、虎近が獲物に襲い掛かる虎のごとく一気に飛び込んできて、右の拳で季武の顔面をぶち抜いた。そして間髪いれず、今度は左の拳を顔面に叩きつけた。それはさきほど戦った虎熊童子とはまったく異なる戦いぶりであった。

 不意を食った季武がよろけて頭が下がったところを今度は組んだ両拳で思い切り打ち下ろした。巨大な金槌で叩かれたような衝撃が季武を襲った。一瞬、くらりとしたが体が無意識に反応していた。倒れかけた季武は虎近の足を取っていた。そして相手の足を取ったまま、そのまま地面に倒れ込んだ。思わぬ反撃をくらった虎近は上に乗られては一大事とばかりにすかさず片足を抜き出すとその足で季武を蹴りつけ始めた。だが季武もそうはさせじともう一本の足を脇に締めたまま、もう片方の手で虎近の足を掴もうとした。 

 しかし丸太のような虎近の渾身の蹴りを片手で掴むのはやはり至難の業であった。虎近も両足を掴まれれば命取りと分かっているので必死であった。虎近は急所である脳天に集中して何度も何度も蹴りを放った。虎近の蹴りの威力たるや凄まじいもので、季武も足を掴むことよりも頭を防除せざるを得なくなった。だがこのまま蹴りをくらい続ければ、そのうち季武の腕の骨ごと叩き折られてしまうのは火をみるより明らかだった。

 なんとかしなくはならなかった。押さえつけているもう一本の足を離して、立ち上がってしまえばいいのだが、今のこの体勢において、そうすることは相手に隙を与えることに他ならなかった。両足が自由になったとたん、立ち上がるより先に、季武の顔めがけて爆雷のような蹴りが放たれるだろう。もしくは立った瞬間、今度は季武の両足が絡め取られ、地面に倒されるかもしれない。考える時間はなかった。季武は抱えていた虎近の足の脛に噛みついた。虎近の絶叫が響き渡った。

 叫びと共に季武の頭を防御する太い腕を虎近は死に物狂いで蹴った。腕ごと頭を踏み割らんとした。何度も何度も踏み抜いた。いつの間にか、季武の腕は真っ黒になっていた。筋肉がちぎれ、内出血し、もはやただ頭の上においているだけだった。そしてついに鈍い音がした。季武の腕の骨は完全に砕けていた。だが同じように虎近の脛もまた、季武によって大きく噛み千切られていた。だが虎近は向う脛を齧り取られたことに構う余裕などなかった。虎近は痛みも吹き飛ばさんばかりに再び蹴りを放ち始めた。こうなると腕の骨が折れた季武の方が厳しい状況となった。骨が折れた季武の腕は全く力が入らず、その衝撃が直に脳髄に襲ってきた。頭蓋に凄まじい衝撃が襲ってきた。脳が揺れ、一瞬、意識を失った。その瞬間、虎近は抱えられていたもう一本の足も抜き出し、脛を喰いちぎられたことなどお構いなしにすかさず立ち上がろうとした。 

 その瞬間、季武が無意識に動いた。それは、生まれつき備わった季武の戦士としての本能であったろうか。立ち上がろうとした虎近に体当たりして、虎近の胸の上にかぶさり首を締めていた。季武の片手は既に使いものにならなかったが、季武は片手で虎近の首を抱え、その上に自分の分厚い胸板を押し付けた。虎近は手足をバタバタさせてもがいたが、己より大きい季武に完全に首をきめられてしまい、抜け出すことができなかった。虎近の首周りは一抱えもあったが、それを押さえる季武の腕もまた丸太のように太く、虎近は頸動脈を押さえつけられた上、息も満足にできぬ状態に陥った。このままでは遠からず意識を失う、そうなれば死も同然であった。だがこの体勢でどうすればいい。何度も何度も抜け出そうとしたが、季武の腕の筋肉ははちきれんばかりに盛り上がり、虎近の首をがっちり抑えていた。呼吸もままならず血も通わず、力が徐々に抜けていき、頭までぼんやりしだした。  

……やっぱり、俺は勝てねえのか…… 

 朦朧とした意識の中、独り言ちた。すると、どこからかまたあの声が聞こえてた。 

……虎よ、お前の一番の武器はなんだった、お前の一番の武器は諦めねえことじゃねえか。おまえは、昔っから、どんなに強え相手にだって立ち向かっていったじゃねえか。負けそうになっても絶対に諦めねえ。それはお前に勇気があるからだ。恐怖に打ち勝つ勇気を持っているからだ。虎よ、諦めるな。力が残っている限り、諦めるな。それが俺の自慢の息子、虎近だろう…… 

 首を締めていた季武は虎近の抵抗が弱まっているのを感じていたが、容赦することなくさらに力を込めて首を締めた。それは無慈悲だからではなかった。最後まで死力を尽くす。それこそが力を追い求める者たちにとって、なによりのはなむけであり、死と賭して戦ったものに対する最大の敬意であると知っていたからであった。 

 虎近の体から完全に力が抜けた。終わった、季武がそう思った時だった。腕の中の虎近の頭がぐりぐりと動いた。いや、首が完全に回り切っていないのに、体は横を向いて、季武の背中にぴたりと合わさった。そして両腕を季武の胸に回すと、しっかりと手を組んでぎりぎりと締め始めたのだった。思ってもみない反撃だった。だがその反撃は信じられないほどに強力だった。

 季武の分厚い胸板に虎近の腕がめりめりとめり込んでいた。肺が圧迫され、心の臓がつぶされそうであった。虎近の息の根を止めるどころか、自分の呼吸が止まってしまいそうであった。季武は必死の形相で全身の力を振り絞った。虎近の頭を締めていた腕と胸の筋肉が一層隆起し、頭蓋がみしみしと音をあげた。だが虎近は頭を守ろうとしなかった。自分の頭が砕けるその時まで、季武の胸を締め続けようと覚悟を決めているようであった。虎近の両腕にさらに力が加わった。季武の分厚い胸板の下で肋骨がぎりぎりときしみ始めた。それは筋肉と筋肉のせめぎあい、力と力のぶつかり合いだった。いつか季武も虎近も声を限りに叫んでいた。鋼鉄のような固い筋肉の表皮に血管が葉脈のように浮き出て、血液が奔流のように全身を駆け巡った。季武も虎近も、目じりから、鼻から、耳から血が噴き出ていた。互いに顔中血まみれであったが、その下の肌はさらに真っ赤で、まるで血液が沸騰しているかのように二人の上には蒸気が立ち昇っていた。 

 季武の右腕はさきほど喰らった虎近の凄まじい蹴りで骨が完全に粉砕されていた。だから、季武は左腕と体だけで虎近の首を締めていた。しかし、それは完全に決まっているはずだった。普通であれば、血が止まり、呼吸ができず、頭蓋が割れるかもしれぬと思えば、恐怖で身がすくみ、ひたすらあがくだけ、それが当たり前のはずだった。

 だが虎近は恐れなかった。虎近の勇気が恐怖を超越していた。その勇気に追いつかんと虎近の中でずっと眠っていた力がようやく起き上がらんとしていた。力が滾々と湧いてきて、その力が虎近の体まで大きくしているかのようであった。首周りの筋肉が瘤のように盛り上がり、大事な血流をしっかりと守っていた。頭蓋骨を形作る細胞はどんどんと増殖し密度を高め、岩のように固くなっていった。季武が力を入れれば入れるほど、虎近の体はどんどん強固になっていった。まるで季武の力が、虎近の力を呼び覚ましているようですらあった。

 季武の胸を圧迫する力はどんどん強くなっていった。今や完全に虎近の腕が季武の胸部にめり込んでいた。あまりの圧力に行き場を失った血が季武の顔の至るところから噴き出した。そして、虎近の力はついに季武の力を超えた。必死に抵抗していた季武の肋骨に亀裂が走ったかと思うと、ばりばりと音がして砕け散り、その破片が肺と心の臓に突き刺さった。その瞬間、季武の口から大量の血が溢れ出た。これまで何百という鬼を蹴散らし、身の丈八尺を超える虎熊童子に打ち勝ち、そして今、生まれ変わった虎近と死闘を演じてきた季武には、もはや体を動かす力も残っていなかった。 

 虎近は季武の脇に立った。虎近の視線の先には息も絶え果てんとしている季武の姿があった。季武の目から血がだらだらと噴き出ていた。毛細血管が破裂し、既に失明していた。だが季武は虎近が脇に立っているのを感じると、そちらの方になんとか顔を動かし、かすれた声で呟いた。 

「……よ、よい、し、勝負であったな……」それが、卜部季武という男の最期の言葉であった。 

 虎近は、そんな季武をしばらくの間じっと見つめていたが、心に滾った思いを吐露するように言った。 

「あんたは俺を人に戻してくれた。俺を成長させてくれた、あんたは凄い男だった……俺は故郷に帰るよ。大好きな蝦夷の地へ。そこでもう一度、蝦夷の男として生きようと思う――板東の男、卜部季武、俺はあんたのことを一生忘れねえよ」 

 月が季武と虎近を照らしていた。一人はもはや思い残すことは何もないとばかりに、満足しきった顔で眠るように大地に横たわっていた。もう一人の男は一段と逞しくなったその体に新たな思いを刻んで静かにその場を歩み去っていった。鬼太郎と異名をとった怪力の男、卜部の季武。思いが強すぎるが故に一度は鬼となった蝦夷の男、虎近。力というものに惹かれ、力というものにこだわった天下無双の二人の戦いはこうして終わった。 

 



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