この国に辿り着いてはや三か月が経過していた。その間、ユリは毎日必ずステラが住まう洞窟に食料をもってやってきた。朝早い時もあったし、夕方近くなることもあったが、必ず一日に一度はやってきたのだった。ところがある日のこと、夕闇が迫ってもユリは現れなかった。そして結局、夜が明けてもユリは現れなかった。ステラはその晩は一睡もできなかった。不安でしょうがなかった。ユリに身に何かあったのではないかと心が騒いだ。
朝日が昇るのを見たステラはもはやここでじっと待っていることに耐えられなくなった。ステラは洞窟を飛び出した。そしていつもユリが現れる方角を目指して走り出していった。いつの間にか森の中に彷徨いこんでいたが、ステラは恐れることなく前に進んだ。ステラは海の街で生まれ、海風を浴びて育ってきた。ステラは海の匂いを感じることができた。どちらが海でどちらが陸であるかすぐに判断することができた。海辺に住むものたちは海と共に生きねばならない。
父親はいつもそう言っていた。であればユリが住むところも海辺近くにあるに違いない。海辺を辿っていけば必ずユリのもとに行ける。ステラはそう信じたのだった。そしてわずか半刻も立たないうちにステラの予想通り、いくつかの小屋が立ち並ぶ集落を見つけたのだった。
その集落には十軒ほどのあばら小屋が固まって建っており、浜辺ではユリと同じような黒髪の男たちが漁から戻ってきた船を浜まで引っ張りあげていた。ステラは男たちに見つからぬように用心深く集落の背後にある林から集落に近づいていった。そしてぽかっと空いた空き地に一本だけ生えている大きな松の木を見た瞬間、ステラの体が凍ったように固まった。
その松の木には縄でぐるぐる巻きにされたユリが吊るされていた。ユリはぐったりとしてぴくりとも動かなかった。よく見ると顔にも手足にもひどく叩かれた痕が生々しく残っていた。一瞬、頭が真っ白になったステラだったが、すぐに正気に戻るとその松の木のもとに一目散にかけていった。
「ユリ、ユリ! 大丈夫か!」
ステラは吊るされたユリに向かって声を掛けたが、ユリは死んだように動かなかった。とにかく一刻も早く降ろさないといけない。ユリを釣り上げている縄が枝にかかり、そこから少し離れたところにある切り株の根元に結わえ付けられているのを見ると、ステラはすかさずその切り株のもとに走り縄を解こうとした。しかし結び目は固く、ステラの力では容易にほどくことはできない。
焦ったステラは辺りを見渡し、一軒の家の脇に銛が一本立てかけてあるのを見つけると、すぐにそれを持ってきて刃先で縄を切り始めた。だがその刃先は錆びていて切れ味が悪く、荒縄の一筋一筋を切るのにじれったいほど時間がかかった。幸い、まだ人はいなかったが反対側の浜辺では男たちが作業をしており、ぐずぐずしていればすぐに見つかってしまう。その焦りが刃をもつ手を何度も滑らせ、いつかステラの手は真っ赤に染まっていた。だがそんなことに構ってなどいられなかった。とにかく早くユリを助け出して、この場から逃げ出さないといけない。
ステラは血まみれになった手を一心不乱に動かし続けた。なんとか半分ほど断ち切った時だった、ユリの体重を支えきれなくなったか、一気に縄が切れてユリの体が地面に落ちた。ステラはユリのもとに走ると、ユリを抱きかかえた。
「ユリ、僕だ、ステラだ、分かるかい。ユリ、死んじゃだめだよ……ユリ、こんなにぶたれて……可哀そうに」
ステラの腕に抱かれたユリの顔はどす黒く腫れて、見るも無残なありさまだった。ステラの目から涙がこぼれた。その涙がぽつんぽつんとユリの頬に落ちた。するとユリの目がうっすらと開いた。そして自分を抱きかかえているのがステラだと悟ると微かに微笑んだ。
「ユリ、大丈夫だよ! 今度は僕が助ける番だ。僕が君を連れだしてあげる。もうちょっとだけ辛抱して、必ず、助けてあげるから!」
ステラはそう言うとユリを背中に背負って、その場から逃げ出そうとした。だが、酷い拷問にあったと見えて、ユリは手足を動かすことすらできなかった。ステラはユリを引きづりながら歩いたが、まだ少年に過ぎないステラにとって、今のユリの体はひどく重く、一歩進むのにもひどく時間がかかった。林まで辿り着けば逃げおおせることができる。ユリを自由にできる。そう思うのだが、その林がひどく遠くに見えた。ステラは神に祈った。なんとか、僕たちを逃がしてください。ユリを助けてください。そう祈った。心の中で何度も祈った。だがステラの神はその願いをかなえることはなかった。
「誰だ、てめえ!」ユリをかついだステラの背後で大きな声が響いた。
「てめえ、その女をどこにやる気だ!」
「さては、てめえがこのあまの仲間か!」男たちの声が次から次へと聞こえてきた。
ステラは観念せざるをえなかった。ステラはユリを地面に寝かせると、男たちの方を振り向いた。だがステラの顔を見た瞬間、男たちの声は一層大きくなった。
「こいつ! 髪の毛が黄色く光ってやがる!」
「見ろ、青い目玉をしてやがる!」
「鬼だ! 鬼が出やがった!」
「銛だ、銛をもってこい!」男たちの驚きと怒声が辺りに轟いた。
「待ってください! 私は鬼ではありません。海に流されてこの国に辿り着いてしまっただけなんです。私は皆さんと同じ人間です!」男たちが語る言葉をなんとか理解したステラは、必死になって弁明した。
「黙れ! てめえみたいな奇怪な格好をした野郎が人間なはずがねえ!」
「異国からの流れ者だと! このあまと同じこと言いやがる! てめえら、ぐるになって、俺たちを喰らいにきたんだ、そうに違いねえ!」
「このあま、いつも飯を盗みくさって、どこぞに運んでいると思ったら、てめえのもとに持っていきやがったんだな!」
男たちは口々に叫び、ステラの言葉に耳を貸す素振りは全くなかったが、その口ぶりに違和感を覚えたステラが叫んだ。
「いったい、どういうことですか。ユリはあなたたちの仲間じゃないんですか」
「このあまはてめえと同じ流れ者だ! 少しばかり言葉が喋れるから情けをかけて飼ってやったが、恩を仇で返しやがって、やっぱり畜生は畜生、鬼は鬼だぜ!」
「畜生のくせに強情張りやがって口を割らなかったが――そうか、てめえ、このあまとできてやがるな。乳くりあった相手を助けにでも来たかよ」
「鬼がそんな大層なことを考えるかよ。大方、このあまに自分の隠れ家をばらされると思って、様子を探りに来たに違いねえ」
「そんなことはどうだっていい。とにかく、こんな気色の悪い鬼どもを生かしておいちゃ、どんどん仲間を呼んで、うじゃうじゃ増えていきやがる。おいみんな、今のうちだ! よく見りゃ、まだガキじゃねえか、今のうちにぶっ殺してしまおうぜ!」
「まてまて、こいつの他にも仲間がいるかもしれねえ。こいつも吊るし上げて泥を吐かせた方がいいんじゃねえか」
「それもそうだな、最近、妙な野郎がうろついてやがるからな。きっと、あの野郎もこいつらの仲間に違いねえぜ」
「どうだ、こいつを餌にあの野郎をおびき出すってのは!」
「そりゃいい考えだ。こいつを吊るして、あの薄気味悪い、黒い野郎もまとめてぶっ殺しちまおうぜ」
「そうだ!」
「それがいい!」男たちは口々に喚くと、血走った眼をステラに向けた。
大の男たちに取り囲まれたステラはどうすることもできなかった。必死に抵抗しようとしたが、少年に過ぎないステラには海の荒くれものたちに抗う力はなかった。大勢の男たちに囲まれ、殴られ、蹴られ、踏みつけにされた。その間、必死に訴えたが、血に狂った男たちの耳にステラの声が届くことはなかった。
はあはあと荒い息を吐く男たちの下に、ステラが死んだように横たわっていた。あの美しい顔立ちは血と泥と痣で今や見る影もなかった。
「こんだけ痛めつければ逃げ出すこともあるめえ」
「それじゃ、吊るすとするか」
「おい、こっちのあまはどうする。ぴくりともしねえが、もう死んでるんじゃねえか」
「新しいやつを捕まえたから、そいつはもう用済みでいいだろ。とどめを刺して、魚のえさにでもしてしまえ」
誰かが言ったその言葉がステラの意識を呼び戻した。ステラは残されたわずかな力をふり絞って、ユリがいた方に顔を向けた。そこに見えたもの。それはユリにとどめを刺さんと、銛を高く持ち上げた男たちだった。
「やめろ、やめてくれ、ユリは人だ! 同じ人間だ!」
ステラは叫んだ。身に残ったありったけの力を込めて叫んだ。だがその叫びは誰にも届かなかった。ユリの体にたくさんの銛が突きたてられた。銛が突き立てられた瞬間、ユリは目をかっと見開いた。そして少し離れたところに目を見開いて自分を見つめるステラがいることを知った。ユリはステラの方に手を伸ばして、泣きそうな顔で小さく呟いた。
「……ステラ、今まで騙してごめんね……わたしの本当の名前は、リーリン……ステラ……ステラ……あなたに会えて本当に良かった……」それが最後の言葉だった。そしてその言葉とともにユリ、いや異国の少女リーリンの瞼は閉じ、再び開くことはなかった。
ステラは言葉を出すことができなかった。ただ叫んでいた。心の中で叫んでいた。何かが、心の中の何かが猛り狂ったように叫んでいた。
どうして、こんな目に合わねばならないのか。 自分やリーリンはいったい、この男たちに何をしたというのか。異国から流れ着いた孤独な人間が、この異郷の地でほんのわずかばかりの幸せをつかもうとすることがそれほどの悪だというのか。ほんのちっぽけな希望を抱くことがそれほどの罪だというのか。神よ、あなたがお創りになったこの世界は残酷です。あなたはなにが目的で、わたしたちをこの世に遣わしているのですか。ただ私たちを苦しめるためだけにこの世に生まれさせたのですか。神よ、あなたは一体何をお考えになっているのです。わたしにはわからない、わからない!
心の中で狂ったように叫び声をあげるステラの心とは別に、体は無意識にユリのもとに行こうと動いていた。少しでもユリの近くにいこうと手を伸ばしていた。差し伸べられたユリの手を握ろうと指を極限まで伸ばそうとした。
――これほど月日が経っても、この地に悲しみの声が絶えることはないのか――
誰であろう、自分の叫びとは違う別な声がどこからか聞こえてきた。その声には譬えようのない悲しみの響きがあった。
――異国の少年よ、そなたの悲しみが見える。そなたの中で叫び狂う鬼が見える……だが、それはそなたが誰よりも深い心をもっているからだ……私はお前の悲しみを取り去ることはできない。だがその悲しみをともに背負うことはできる――
悲しみと憐れみを湛えたその言葉。これは神の言葉であろうか、そう思った時だった。急に、男たちの叫び声が現実の声としてステラの耳に聞こえてきた。
「出た、出やがった! 黒い男がでやがった!」
「て、てめえ! いったい何者だ!」
「そ、そこを動くな! 動いたら、てめえの仲間をぶち殺すぞ!」
男たちが次から次へと叫んだ。ステラは男たちが叫ぶ先に眼を向けた。するとユリの亡骸の向こうから一人の男がゆっくりとこちらに向かって歩いてくるのが見えた。その男は帯びも締めず、下帯にぼろ着を一枚羽織っているだけの傍目には普通の男に見えた。だが、迫ってくるに連れて、男の肌が妙に黒いのが分かった。いやただ黒いだけではなかった。不思議なことに、肌の黒みがどんどん増していき、照り輝き始めたのだった。
「と、とまれ! それ以上動くと、このガキの命はねえぞ!」ステラの頭に銛をつきつけた男が叫んだ。するとその黒い男の動きが止まった。その男は身構える男たちに視線を送ることもなく、ただステラの顔だけをじっと見つめていた。ステラもその男の顔を眺めた。そして、その男の顔を見た瞬間、ステラは確信した。この方こそ、そうだと。嵐の海の中で死を覚悟したとき、一刻も早くお会いしたいと願った方だと。その男の顔には深い悲しみの色があった。だがその悲しみを宿した瞳でみられたとき、ステラは始めて救われたと思った。自分が負った苦悩と悲しみがふっと消えたような気がした。
「……お前の名は」黒い男が尋ねた。
「ステラ、ステラといいます」ステラが答えた。
「ステラよ、わたしとともにいかぬか、新しき世へ」
「ゆきます! あなたとともにどこまでもついていきます!」
ステラの言葉を聞いた男の頬がかすかにゆるんだ。
「やい、てめえら! なに、わけの分からねえことしゃべってやがる! てめえもさっさと、このガキのように這いつくばれ! さもねえと、てめえもそこに転がってる女の二の舞だぞ!」
男たちが喚くその言葉を聞いた黒い男は、自分の足元に横たわるユリを見つめると、ゆっくりとその脇にかがんだ。そしてまるで愛おしむかのようにユリの髪と頬をなでた。
「さあ、さっさと、そこに這いつくばれ!」男たちの怒号がさらに響いた。
だが黒い男はゆっくりと立ち上がると、初めて周りを取り囲む男たちを眺め渡した。
ステラはその顔を見た。それは今までの憐みに満ちた顔ではなかった。見るも恐ろしい憤怒の顔であった。ステラはあまりの恐ろしさに顔を伏せた。ステラの耳に声が聞こえてきた。
「……きさまら大和のものどもは、昔といささかも変わらん。きさまらとても流れてきたよそ者のくせに、今ではすっかりこの国の主気取り。きさまらは我らを鬼と呼んだが、いったい、どちらが鬼だ。きさまらが犯した数え切れぬほどの非道な振る舞い。そのためにどれだけの血が流され、涙が零れ落ちたことか。その血と涙がたまりたまって、ついに我を目覚めさせた。大和のものどもよ、もはや猶予はつきた。貴様らの血につながるものは我が悉く滅ぼし尽くす」
その言葉とともに、暴風がステラの背中を吹き抜けた。男たちの泣き喚く声、断末魔の響きがあちこちで沸き起こった。それはかつて父が語ってくれた、悪徳のものたちが神の怒りを受けて滅ぼしつくされる物語そのものであった。ステラは瞼を閉じて蹲り、ひたすら神の怒りが過ぎ去るのを待った。そして、あまりの恐ろしさにいつか気を失っていた。
それからどれほど経ったのだろうか。ステラが起きると辺りにはもう薄闇が舞い降りていた。不思議なことにあれだけいた男たちは誰一人いなかった。ステラは立ち上がると、自分の体が変わっていることに気づいた。あれだけ痛めつけられたのに傷はすっかり治っており、それどころか溢れんばかりに力が漲っていた。頭には角のようなものが生えていたし、手を見ると指が妙に黒く光っていた。
だがステラは自身の身に起きた変化に何の驚きもなかった。その変化は自分があの御方に忠誠を誓った証なのだと思った。ステラは浜辺を去ろうとしたがユリの亡骸だけが残っているのに気づいた。ユリは微笑みを浮かべて、砂の上に横たわっていた。ステラはユリを抱き上げると、元来た道を歩き出した。そして二人が過ごした入江に戻ると一緒に海の中に入り、海に浮かぶユリの体を抱きしめた。
「ユリ……いや、リーリアだったね……リーリア、どうして君がそんなに僕に親切にしてくれたのか、ようやく理由が分かったよ……君も寂しかったんだね。たった一人で、この国で生きてきたんだね。僕はそんな君のことを分かってあげられなかった。君の方こそ、寂しい思いをしてきたことを分かってあげられなかった。君をこんな目に遭わせたのは全て僕のせいだ。リーリア、僕は決めたよ。僕はあの方とともに、君にこんな仕打ちをしたこの国を滅ぼし、新たな世界を創り上げる……リーリア、この海の向こうにはきっと君の生まれた国もあるんだろう。せめて、心だけでも故郷に戻るんだよ」
そう言って、ステラはリーリアの体を放した。もうすっかり日が暮れ、空には美しい星々が煌めいていた。その光に照らされながらリーリアはゆっくりと波に揺られて、海の彼方に消えていった。
