月明かりだけが辺りを照らす人気も絶えた七条河原に、ことりことりと誰かが歩いてくる音がした。河原に晒されていた将門の首はその音を聞くとぎょろりと目をあけて、誰が近づいてくるのか見定めようとした。汚らしい衣装に身を包んだ男であった。だがその男は妙に凛として、恐れる風もなく近づいてくるのであった。
「こんな夜更けに、こんなところに来ようとは。いったいどこのどいつだ!」
将門は男を驚かそうといきなり大喝した。男はその怒鳴り声を聞くと一瞬立ち止まった。だがしばしの沈黙の後、意外な言葉が男の口から漏れ出てきた。
「……父上、ようやく御目にかかれました……ですが、まさかこのような御姿となった父上の御姿を拝すことになろうとは……父上、さぞ御無念のことでございましたでしょう……」
将門はその声音を聞いてはっとした。その男の顔をしげしげと眺めると蓬髪、髭面、垢と土埃にまみれ顔は真っ黒で見る影もなかったが、その顔には確かに見覚えがあった。それは我が子、将国であった。
将国は将門挙兵の時より将門と行動をともにしてきたが、秀郷の軍勢に追い込まれ、いよいよ明日が最後の合戦という晩、将門の命により軍を抜け出し、常陸の国に落ちのびたのであった。最初、将国は将門の命を拒否した。この期に及んで父上をおいて逃げるなど考えもせぬこと、親子仲良く、枕を並べて死にたいとそれこそ涙を流して訴えた。だが将門はそれを許さなかった。何がなんでも生き延びて、自分が果たせなかった夢を果たして欲しい、新しい世を作って欲しいと頭を下げて頼んだのであった。将門がどんな思いで挙兵したか、どんな思いで朝廷に反旗を翻したか、将国とてその想いはよく承知していた。よく知ればこそ将国は将門の願いを断り切ることができなかった。将国は肩をふるわせむせび泣きながら、やむなく死を決した軍門の内から一人戦場を去ったのだった。
だが将国の前途もまた多難であった。将門、敗れるの報が関東一円に広まるや、これまで将門に好意を寄せていたもの、誼を通じていたものたちも次々に朝廷になびき、頼りとなりそうなものは一人していなかった。将国はそれこそ山に隠れ、野に伏せ、朝廷側の追捕を逃れ、ひもじさに耐えながら一日一日を生き延びてきたのであった。そんな中、運よく相模の国で一人の女と知り合い、割りなき中となり、わずかばかりとはいえ、憩いの場を得たことだけが唯一の救いであった。だがそれも長くは続かなかった。京の七条河原に将門の首が晒されているという風聞が関東にまで伝わるや将国はいてもたってもいられず、女の腹に子を残したまま、そのまま別れを告げ、その後はまさに着のみ着のまま、飲まず食わずの果てにようやく京に辿り着いたのであった。
「……将国か……よくぞ生き延びたものよ……その様子ではだいぶ苦労したであろう」
将門の口に初めて人らしい声音が戻った。
「……父上、まさかこのような御姿になっても生きておられるとは……いったい、父上の身に何が起こったのでございましょう……なにが父上をこのような御姿にしてしまったのでしょう……」将国は将門の首の前に膝をつくと、愛おしむようにその頬を撫でた。
「……いったい何が起こったというのであろうな……秀郷は我を鬼になったかと言ったが、確かにそうなのかもしれぬ……」そう言うと、将門は自嘲するように笑った。
「……あれは、お前が去っていった晩のことであった。もはや思い残すことはない。明日は秀郷相手に思う存分、力を奮ってやるだけと、そんなことを想いながら一人酒を飲んでいた。するとどこからか声がしてきのだ……」将門はわずかに目を細めて、空に浮かんでいる月を眺めた。そして将国の手から伝わる暖かさを感じながら、ぽつぽつと話し始めた。
大きな月が空に浮いていた。その月を肴に将門は幕屋に敷いた藁座に座り、一人酒を飲んでいた。この幕屋の周囲は秀郷軍が既に取り囲んでおり、集団で逃げおおせることなどできるはずもなかった。それでも一人ならばと深夜、将国を落ちのびさせたのだった。そして、将国が去った今、将門にはもはやなんの憂いもなかった。もう十分、戦った。残念ながら、この世を変えるには至らなかったが、それでもずっと心に抱いていた想いとこの地に住まうものたちの想いを背負って精一杯戦った。それはいつか誰かが為さねばならぬ戦いであった。それだけで十分だった。あとは一人の武人として心おきなく戦いたい。今将門が思うことはただそれだけだった。そんな思いを胸に抱いて酒を飲んでいると、どこからか声が聞こえてきた。それは妙に低い声で近くから聞こえてくるようにも感じるが、いったい、どこから聞こえてくるのかとなると、いっこうにわからないのであった。
「……あの大和に戦いを挑むとは、よくやったものよ……しかし、まだ足りぬ。足りぬのだ。だから、秀郷にしてやられたのだ。大和のやつら相手に再び苦渋を舐める羽目になったのだ……だが、嘆くことはない。力は満ちつつある。我らが流した血と涙が大地に沁み込み、偉大な力が復活しようとしている。我らが奴らに勝つ日は、もう目の前に迫っているのだ」
「どこの誰だかしらんが、俺はまだ負けたつもりはない。明日は思う存分力を奮い、この将門の力を大和の連中に見せつけてやるつもりだ」将門は誰に言うでもなく呟いた。
「威勢のいいことだ。だがまだその気があるのなら、お前に力を貸してやってもいいぞ」
将門はその言葉を聞いて苦笑した。
「狐か狸か知らぬが、次々と仲間から見放された俺を加勢するというなら、勝手にするがいいさ。俺は俺、好きなように戦うだけだ」
「そうさな、お前はそういう男だ……だが、お前の身の内にも我らと同じ血が流れている。お前が望まずとも、お前の中の血がお前を動かす。将門よ、明日お前は知るだろう。己のもう一つの姿をな……」それを限りに、その声はそれっきり絶えてしまったのだった。
将国は将門が語る不思議な話を黙って聞いていた。何の疑問も抱かなかった。それどころか、将門がきいた声すら想像することができた。将国自身、同じような声を聞いてきたからであった。信頼していた人間に裏切られ、容赦ない追捕の手から逃れるうちに、将国の耳にも将門と同じような声がどこからともなく聞こえるようになっていたのだった。その言葉を聞いているうちに、その言葉が外から聞こえるのではなく、実は己のうちから聞こえてくるものであることを感じ始めていた。
己の中にある、もう一つの姿。己の血の中に脈々と流れる古き民の系譜。板東の地に生まれ、板東の地のために死んでいったものたちの想い。虐げられてきたものたちの叫び。そうしたものが知らず知らずに己を突き動かし、己の歩むべき道を定める。それを鬼だと言うのであれば、そうなのかもしれない。その声を聞くうちに、いつか将国はそう感じるようになっていた。
今、実際に鬼となり果て、首だけになっても生き続ける将門を前にしても、なんの恐れも感じなかった。逆に鬼とならざるをえなかった父に、そして鬼の血が流れる自分たちに愛おしさすら感じていた。
「……父上、父上の言う通り我らは鬼なのでしょう。我らの中にいる鬼が我らを動かしているのでしょう。ならば私も鬼となりましょう。鬼となって大和のやつばらを一人残らず滅ぼしましょう……父上、私たちを動かすもととなったものがいったい何者であるか、私はようやく、その正体を知りました。その方こそ、我ら東人や夷の民の本当の父であり、我ら鬼の一族の長たる御方です。今、その御方は千年の眠りについていますが、その方を目覚めさせた時、その時こそ我らの本当の力が満ちる時です。大和に勝利するときなのです」
将国はそう言うと将門の首を両手で抱えた。そして二人は互いに見つめ合った。どちらの顔にも穏やかな笑みが浮かんでいた。
「……父上、私と共に参りましょう……」
将国は最後にそう語りかけると、あろうことか将門の首を喰らい始めた。目を啜り、鼻を齧り、耳を噛み千切った。頬の肉を食った。髪の毛ごと頭にかぶりついた。骨すらばりばりと噛み砕いた。それは凄まじい光景だった。子が鬼となった父の生首を喰らう。だが、喰う将国も喰われる将門も、なんとも幸せそうな顔をしていたのだった。
半刻も過ぎたであろうか。空に浮かんだ月だけが、相変わらず七条河原を照らしていた。さきほどまであった将門の首はもうそこにはなかった。そして、将国の姿もなくなっていた。そこには別の男がいた。その男の肌は金色に光り、頭には三本の角が生えていた。その男、いやその鬼が舞っていた。長い槍を手に朗々と吟じながら舞っていた。
敗は兵家かも事期せず
羞を包み恥を忍ぶは是れ男児
江東の子弟才俊多し
捲土重来未だ知るべからず
美しい舞であった。天地が静まり返る中、ただ一人舞っていた。
そして、舞い終えた鬼は空に浮かんだ月を眺めると、ぽつりとつぶやいた。
「……ようやく、我らの時代が始まる」
