最強の者同士が命を懸けて戦い合う。それは戦うことに生涯をかけたものたちにとって、至高の悦楽であるのかもしれない。戦いとは一人では成り立たない。相手があってこそ戦いが成り立つ。だが自分の強さを限界まで引き出すためには、相手も強くなければならない。最強の相手がいてこそ、己の真価を余すことなく発揮することができる。
渡辺綱と茨木童子の戦いは、まさに最強者同士の戦いであった。腹を抉られた渡辺綱、右目を失った茨木童子。二人とも早々に浅からぬ傷を負った。だがそんなことはこの二人にとって、いささかの乱れも生じさせるものではなかった。どちらも五体無事で相手に勝てるなどとは思っていなかった。死線を超えたところにこそ、ほんのわずかな勝機が見えてくる。そのことをお互いが理解していた。
綱は腹の傷を代償に茨木童子の片目を潰したが、決して油断することはなかった。却って間合いを余分に取り、相手の動きの程度を見極めんとした。そして茨木童子はそんな綱の動きを残った左目でじっと見つめていた。じりと綱が足を動かした時だった。茨木童子が不意に襲い掛かった。その動きは片目が見えぬものの動きではなかった。正確に綱の心臓目掛けて、槍を放ってきた。綱は慌てて後ろに下がったが、茨木童子は一弾、二弾とまたしても連続の突きを放った。まさに神速、さすがにさきほど放った六弾の突きとはいかなかったが、一呼吸の間に五弾の突きが綱目掛けて放たれていた。
間一髪でなんとか凌いだ綱だったが、完全にかわし切ることができず、さらに傷を負った。やはり鬼は人と体のつくりが違うのであろうか、茨木童子は片目でも十分に戦える、そう思わざるをえなかった。そうなると戦いが長引いて不利なのは綱であった。槍で抉られた腹からは血が滴り落ち、次第に痛みが増していた。今の攻防も腹の傷が綱の動作を鈍くしていた。ならば攻めるか、だが槍をもった相手に真正面から飛び込むのは危険極まりなかった。
綱が思案した、その一瞬だった。再び、茨木童子が前に出て突きを繰り出してきた。一弾、二弾、迫った槍の穂先を刀でいなした綱だったが、三弾目の槍の穂先をいなしたその返す刀で、綱は下段から上段にかけて切り上げていた。
茨木童子の電光石火の攻めを封じるには、守勢に周るのではなく攻めるしかない。綱は瞬時にそう判断したのだった。今度こそ仕留めんと槍を繰り出した茨木童子だったが、思わぬ綱の反撃に会い一瞬狼狽えた。だがさすが茨木童子、槍を素早く反転させると、柄の部分で綱の刀を食い止めんとした。だがそれは危険な賭けでもあった。少しでも刃の間合い見誤れば、頼光の屋敷での一戦の時と同じく、柄ごと断ち切られてしまう。茨木童子は残った片目で太刀を振るう綱の手と太刀筋を見極めると、今度は後ろに下がるのではなく前に出た。茨木童子の柄と綱の刃がぶつかった。綱の刃が柄に食い込んだがそこまでだった。茨木童子は綱の太刀筋を完璧に見極め、刃の力が半減する刃元に柄を押し当てていた。
二人は、獲物をもつ両手に力を込めた。刀と槍がぶるぶると震えた。二人の顔は至近の距離にあった。綱の黒い瞳、茨木童子の金色の瞳が互いを見つめた。二人は気合の一声をあげると、今度は同時に後ろに跳んだ。互いが互いの呼吸を完全に把握していた。それは、まさに名人同士の舞を見ているようですらあった。二人は再び距離を取って対峙した。
「……さすが、綱よな。この俺の突きをくらいながら、却って、攻め込んでくるとは……貴様、本当に人か、貴様こそ鬼ではないのか」茨木童子がにっと笑った。
「お前こそ、鬼にしておくには惜しい男よ。それだけの腕があれば、天下を望むこともできたろうに」綱が刀を構え直しながら言った。
「天下を望むか……かつてはそんなときもあったような……だが綱よ。いくら強くても天下は取れんぞ。天下を取るにはまた別な力が必要だ」
「別な力だと」
「そうだ……執念というべきか怨念というべきか、我ら鬼の一族がどれほどの想いでこの国に生きてきたか。その想いが満ちたればこそ、我らはこの国を取ることができるのだ。その想いを背負われた方が復活されたからこそ、天下が取れるのだ」
茨木童子の言葉を聞いた綱がふんと笑った。
「それが貴様らの首領と言うわけか。怨念に凝り固まった悪鬼の如き鬼が復活したというわけか。だがな茨木童子よ、だからといって、天下を貴様らにくれてやるわけにはいかん。なぜなら、俺にも天下をとらせたい方がいるからな。我が主、源頼光こそ、新しき天下を作りなされるお方だ」
「頼光が天下だと……お前たちは何も分かっていない。武士がいくらあがこうが、貴族どもが支配するこの国を支配することなどできん」
「いや、できる! あの方には夢がある、俺たちみたいなものにまで夢を与えてくれる! 怨念で世を壊すことはできても、新しき世を作ることはできん。夢と希望こそが、新しき世界をつくること力となるのだ!」
「こざかしいことを! お前とてわかっていよう。この世が非常、非道であることを。人一人が夢をみたところで世は変わらん。ましてその頼光はどこにいる。もしかしたらすでに我が配下の手によって、冥途に向かっているかもしれんのだぞ。だとすれば、お前は叶わぬ夢に命を懸けるただの阿呆ではないか!」
「確かに阿呆かもしれぬ。だが、それはお前とて同じであろう。信じるものがいるからこそ、こうして命を懸けて俺と戦っている。お前はお前の主が死んだからといって、己の生きざまを阿呆というか、いや言うまい。お前はお前の信念によって、俺と戦っている。それは俺とて同じ事、俺は殿を信じる! 殿が天下を取ることを信じる! だからこそお前には負けられぬ、絶対に負けられぬのだ!」
そう叫ぶや、なんと綱は茨木童子に向かって切り掛かった。槍を構える相手に刀を持つものが自分から攻めかかる。それは一言でいえば無謀ということになろう。相手は狙いすませて、最適の間合いで相手を迎えることができる。しかも槍の間合いは刀の間合いよりも長い。つまりは刀を振るう前に相手の狙いすました槍の一撃を受けざるをえないのだ。
刀であれ、槍であれ、一撃で相手を殺すことができる武器を持った者同士が延々と撃ち合い続けるなどありえることではない。こうした勝負はほとんど一瞬にして決まるのが常であり、それはどんなに技量が優れたもの同士の戦いであっても同じことであった。
言い換えれば、戦いとは一瞬一瞬に生死が掛かっている。ちょっとした油断、気のゆるみ、侮り、無謀な攻め、それらの先にあるのは己の死に他ならない。その無謀な攻めを綱は繰り出していた。もちろん無謀であることは綱とても分かっていた。槍を持つものと戦うのであれば、まずは敵の攻めをいなしながら、己の間合いに引き込むのが常道であり、綱もこれまではそうしてきた。だがそれは並の相手ならの話であった。茨木童子という天下無双の槍の使い手を相手に、守勢に回って勝機を見出すのはほとんど奇跡に近かった。ならばこその決断であった。死の中に身をおいて、生を掴む。綱が生きてきた人生の中で培われたその覚悟が今この瞬間に、綱の体を動かしていた。
対峙していた綱が自ら踏み込んできた。まさか自分から攻め込んでくるとは思いもよらなかったが、それもまた綱という男の凄みであろう。茨木童子は決して油断しなかった。全神経を集中し、眼、耳、鼻、肌で綱の動きを捉えんとした。大地を蹴る音とともに綱の心臓の激しい鼓動が聞こえた。眦を開き、必死の面持ちで攻め込むその顔は熾り火のように赤く上気していた。綱の体中から血と汗が入り混じったにおいが漂っていた。ただ人には発し得ぬ、ただならぬ威風が綱の全身から噴き出していた。茨木童子は綱の動作を完全に見定めていた。茨木童子は槍を構え、綱の心臓に狙い定めた。あと一呼吸の間に全てが決する。綱の心臓に槍を突き刺す。そうすればこの大江山の戦いは終わり。いや、鬼と人の戦いは終わりとなろう。大和の最期の望みは絶たれ、鬼の世が到来する。
その一呼吸がなんと長く感じることか。このために己は生きてきた。鬼となって生き永らえた。だがその前は人であった。関東に覇を唱えんとしたのは我であったか。晒し首にされた父に一目会わんと疲労困憊の中で旅を続けたのは我であったか。いや、どちらでもいい。どちらでも同じこと。人であろうが鬼であろうが、我らはこうするよりほか道はなかった。鬼となって大和を滅ぼす。そのためにあの御方を蘇らせた。千年の間、軛につながれていたあの御方を解き放った。それは我らの鬼の一族の悲願であった。
一歩、二歩、三歩、綱の足が三度、大地を蹴った瞬間、ぎりぎりまで引き付けていた茨木童子の槍が放たれた。その穂先は綱の体を完全に貫いた。だが綱は止まらなかった。なんとそのままの勢いで飛び込んできて、髭切の太刀を一閃した。まさに電光石火の一振りであった。
首に電気が走った。以前、これと同じようなことを体験したような気がした。
……そうだ、あの時は秀郷と戦っていた。今と同じように勝ったと思ったその瞬間、信じられぬような神速の反撃を喰らい、体が石のように固まり、そして視界が徐々にずれていき、首が地面に落ちた……
あの時と同じであった。茨木童子は体を動かすことができなかった。目の前には、槍が突き刺さったままの綱が何とも言えぬ表情で立っていた。
……これで終わりか……いや、あの時は首となっても生き続けたはずだ……だが力がどんどん抜けていく……そうか、そうだったのか……俺の役目はあの御方を蘇らせることだったのか……その役目を果たした今、俺の役目はすんだというのか……それも良かろう……苦しい思いもしたが、武士の棟梁として思う存分、戦うことができた。最強の男たちと腕を振るい合うことができた……夢を見ることができた……夢か、綱よ、お前の言う通りだ。確かに夢がなければこの世はつまらん……綱よ、お前たちが、あの御方を相手にどう戦うのか、あの世でゆっくり見物させてもらおうよ……
茨木童子の体がまるで砂のように崩れていた。その様子を綱はじっと見つめていた。その体には茨木童子の槍が突き刺さったままであった。その槍は確かに綱に突き刺さっていた。だがわずかに心臓から外れていた。
綱は己の心臓を囮にしたのだった。己の心臓を囮にして、茨木童子の攻めを一つに絞らせたのだった。茨木童子は綱を待ち受けて、最適の間合いで渾身の一撃を放ってくるであろう。その瞬間、わずかに体をずらし、心臓への直撃をかわす。それが綱の狙いだった。だがそれは危険な賭けであった。茨木童子が一突きに絞らず、連続の突きを放ってくれば、この体勢ではもはやかわす術はなかった。そしてもし一突きに絞ってくれたとしても、あの茨木童子の繰り出す突きを本当にかわせるのか、もしかわし得たとしても肺や動脈にでも突き刺されば結局は死に至るであろう。綱は万に一つの可能性に掛けたのだった。まさに死中にあって、ほんのかすかに見えた生の糸をたぐりよせたのだった。だが綱が茨木童子を見つめる目は、勝ち誇ったものの眼ではなかった。まるで仏者のように、哀れと慈しみの色をその目に湛えていた。
「茨木童子よ……お前は確かに最強の男だった……」
綱がそうつぶやいたとき、塵のように消えていく茨木童子の頬がかすかに笑ったような気がした。
