素戔嗚の全身は黒く光り、髪は逆立ち、眼光鋭く光り、頼光たちを傲然と見据えていた。だが頼光たちもまた覚悟を決めていた。相手が鬼であろうが、古の神であろうが、この戦いに人間の未来が掛かっているのは同じこと。京で待つものたち、そしてこの戦いに命を捧げたものたちのためにも絶対に勝たねばならぬ戦いであった。その想いが頼光らを奮い立たせた。傷の痛みなど豪も感じていなかった。三人は、まるで申し合わせたかのように素戔嗚に切り掛かった。貞光が鋭く前に踏み込み、上段から刀を振り下ろした。それに合わせるように綱が横ざまに太刀を薙いだ。貞光の太刀はわずかの差でかわされた。綱の太刀は右肘で受け止められた。だが間髪入れずに、今度は頼光が首を狙って刀を振るった。初刀をかわされた貞光も、まるで交わされるのが分かっていたかのように上に向かって斬り上げた。頼光の刃先が素戔嗚の首をかすめたが、間髪の差でかわされた。
斬り上げた貞光の剣は、なんと足裏で踏み止められた。薙いでは切れぬと見た綱はならばと突きを放たんとした。だが目の前には既に素戔嗚の巨大な拳が迫っていた。息を止める間もなく、首の動きだけでかわしたが暴風が耳元をかすめ、綱の耳がちぎれた。その素戔嗚の背後に向かって今度は頼光が突きを放っていた。しかし綱へ拳を振りぬいた素戔嗚は、その勢いのまま、貞光の剣を押さえていた足を軸にぐるりとまわって頼光の放った突きを交わすと、さらに頼光に向かって廻し蹴りを放った。突きを交わされた頼光はすかさず左肘でその蹴りを防ぎつつ、体を泳がせて、その圧力を外に逃がした。一方、耳を千切られた綱であったが、意に介すこともなく、再度、突きを放った。その突きは、ついに素戔嗚の背中に届いたが、やはりその体は固く貫くまでには至らなかった。
刃を振る音、拳が空を響もす音、男たちの激しい息遣い、戦いの音が洞窟の中に反響した。凄まじい戦いであった。わずかな気のゆるみが己の死に直結する戦い。互いが互いを死に至らしめんとする熾烈な戦いであった。だが、その戦いは美しくもあった。両者の攻防はまさに神技の連続であった。素戔嗚は無手であるにも関わらず、刀を持つ最強の三人を相手に全く引けをとることがなかった。その黒色の体は刃を悉く弾き返すにもかかわらず、肌にあてさせることさえほとんどなかった。そして、それだけの体技をもつばかりではなく、その攻撃もまた破壊的であった。拳は大気を圧し、蹴りは岩をも砕く威力を秘めていた。まさに、古の武神の名に恥じぬ強さであった。だが、頼光たちの武技もまた人の域をはるかに超えていた。その太刀捌きは、常人には捉えることすらできない速さであった。その動きは、まるで水のように自在であり、素戔嗚の恐るべき攻撃をぎりぎりのところでかわしていた。そして、そうした強さを兼ね添えた三人が一心同体、まるで一つの生命のように技を次々に繰り出していた。その攻防を泉下で見守る古の霊たちは、息をすることすら忘れていた。ただ、陶然とその戦いに酔い痴れるのみであった。
綱が放った二弾の突きは、素戔嗚の体を貫けなかった。それは容易ならぬことであった。刀で切ろうとしても肘で止められ、足で踏み押さえられた。突いても切っても傷を与えることができぬとすれば、どうやってこの鬼神を倒すことができるのか。以前、藤原秀郷が平将門を討ち取ったとき、天から一筋の光が将門の首筋に射し込み、そこ目掛けて太刀を振るったところ、ようやく切れたと聞いたことがあったが、この場でそのような奇跡が再び起こることを期待するのは愚かなことであった。なんとか自らの手で活路を見いだすしかなかったが、三人が三人とも疲労が重くのしかかっていた。いずれも大きな深手を負っての戦いであった。時を経れば経るほど、頼光たちにとっては不利になるのは明らかであった。
綱は己の体が既に限界を超えているのを承知していた。茨木童子との死闘からすでに半刻が過ぎた。大量の血が流れ、体に残っている血はどれほどもなかった。顔面は蒼白となり、もはや立っていることすら奇跡のようなものであった。だが綱にとって、自身の体の安否など露も思わなかった。綱が考えていることはただ一つのことであった。どうやったら、この鬼神を倒すことができるか。それだけが綱の思考の全てであった。そして綱は感じていた。最初に渾身の力を込めて振るった一刀は右肘で押さえられた。その後に放った連弾の突きは一度目は交わされたが二度目は肌にあてることができた。確かに貫けなかった。だが、その感触は刀を振るって弾き返されたものとは違っていた。
重く固いが、それは確かに肉の固さであった。一点に集中し、渾身の力を籠めれば貫ける。綱はそう感じ始めていた。
「殿、貞光! こやつから一度、離れよ!」
綱は二人に向かって叫び、後ろに跳んだ。綱の言葉が洞窟に響いた。頼光と貞光はその声が耳に入るやすかさず後ろに引いたが、その意を図るかのように綱を見つめた。綱の顔は真っ白でもはや死人のようであった。だが、その眼の光だけは失われてはいなかった。その眼が何かを語っていた。言葉はなかった。だが頼光も貞光も綱が考えていることを瞬時に理解した。綱はこの鬼神を倒す術を考えついたのだ。ならば頼光も貞光もやるべきことは一つであった。綱のために時と機会を与えることであった。自分たちが戦う中で、きっと綱はその機会を掴み、必殺の一撃を振るうだろう。何の迷いもなかった。綱であれば、きっとなし遂げるに違いない。それはこれまでともに戦ってきたものだからこそ信じられる確信にも似た思いであった。
貞光が雄叫びを上げ、素戔嗚に切り掛かった。まさに稲妻のような一閃、そしてまた一閃、何度交わされても、貞光は前に出て刀を振るった。その圧力に押されたか初めて素戔嗚が引いた。だが素戔嗚は引きつつも貞光の呼吸を呼んでいた。何度目かの太刀をぐいと体を沈めて交わすと、丸太のような足で貞光の腹を蹴った。貞光は再び洞窟の壁まで吹っ飛ばされた。全身の骨が砕けたような衝撃であった。傷口がざっくりと裂けて、血が滾々と溢れ出ていた。すぐに起き上がらんとしたが力が入らなかった。ゆがんだ視界のその先に頼光が素戔嗚に飛び込んでいく姿が見えたが、そこで意識が途絶えた。
頼光は貞光がふっ飛ばされたと同時に攻めかかった。だが頼光は貞光と同じ策は取らなかった。初太刀をあえて大仰に振ったが、それは素戔嗚を誘い込む策であった。案の定、太刀をあっさり交わした素盞鳴は反撃の拳をふるって襲いかかってきた。その攻撃を頼光は次々に交わしていった。流れるような動きで拳を交わしつつ、敵の間合いがどんどん近づくのを測った。その距離が徐々につまり、素戔嗚と頼光の間合いはほとんど顔がぶつかるほどになった。その瞬間、頼光は愛刀膝丸を小円を描くようにくるりと一閃した。
かつて虎熊童子の腕を切り落としたその一閃。至近の間合いから放たれる頼光の必殺の一撃。だが素戔嗚は自身の右手でその刀を見事に掴んでいた。そして、すかさず頼光の喉を素戔嗚の左手が掴み、そのまま一気に釣り上げた。息が止まった。喉がつぶれかけた。太刀を振るわんとしても、その太刀は素戔嗚の右手によって完全に抑え込まれていた。思わず、頼光は太刀を捨てて、自身の首を押さえている素戔嗚の手首を掴み、ふりほどかんとした。
だが素戔嗚の握力は信じがたいほどで、その手をふりほどくことができない。視界が霞んできた。意識も飛び掛けていた。だがここで倒れるわけにはいかなかった。綱のために隙を作らせなければならなかった。その思いが頼光の体を動かしていた。頼光は首を締められるのを覚悟で、素盞鳴の顔目掛けて拳を放った。だが、その拳は素戔嗚の右手で掴み止められた。呼吸ができなかった。力が入らなかった。頼光の意識が切れかかった。だが、一瞬、視界に何かが入った。綱の姿だった。まるで何かを待っているように身動き一つせず、素戔嗚の背後で刀を構えていた。無意識に頼光の体が動いた。残った左手の握り拳を素盞鳴の顔面に放っていた。
素盞鳴の両手は塞がっているので、その拳を防ぐことはできない。だが宙に釣り上げられたこの体勢、しかもほとんど意識を失いかけた男の拳など取るに足らぬとみたか、素盞鳴はその拳を敢えて受けんとした。拳が飛んできた。案の定、とてもこの鋼鉄と化した体に打撃を与えるようなものには見えなかった。そう思った。だが突如、かつて感じたことがない衝撃が全身を襲った。
素盞鳴は掴んでいた頼光の首を放していた。目を下に落とすと、刀の切っ先が見えた。刀の切っ先が心の臓のあたりから飛び出ているのが見えた。素盞鳴は自身の身に何が起こったのか確認するかのようにゆっくりと後ろを振り向いた。いつの間に襲いかかったのか、そこには綱の姿があった。その体は極限まで伸ばされ、その先に握られた髭切の太刀が素盞鳴の背中の中に食い込んでいた。
いったいいつの間に飛び掛かったのか。綱が背後にいることは分かっていたが、動く気配は全くなかった。もし動いたとしても呼吸やわずかな空気のゆらぎから、その動きは瞬時に察知することができるはずであった。それができなかった。それほどにこの綱の突きは鋭く、速かった。しかもその切っ先は、さきほど突かれたところと完全に一致していた。鬼となったあるものたちは鋼のような黒い皮膚を持つことができた。刀を弾き、あらゆるものを切り裂くことができた。だがそれとても限界があった。同じ場所を酷使すれば血が滲み、傷を負うこともあった。だからこそ、よほどのことがない限り、敵の攻撃をあえて受けるようなことはしなかった。だが自分の背後にいる男は、たった一度剣を合わせただけで、それを見破ったのだった。
渡辺綱。かつて茨木童子が腕を奪われた時、大江山に戻ってきた茨木童子はそれをくやしがるどころか、物凄い男がおりましたと、まるで子どものように興奮気味に綱の強さを語っていた。そのとおりであった。確かに天下最強の男であった。だが、それだけではなかった。目の前にいた二人、貞光と頼光。この二人もまた尋常をはるかに超える強さを備えていた。碓井貞光、まだ粗削りで受けにまわったときに隙が生じるきらいはあるが、攻める段となれば、まさに怒濤のような攻めであった。大和との戦いにおいてさえ引いたことなどなかった素戔嗚が思わず引いていた。それほどに貞光の攻めの圧力は桁違いであった。
そして源頼光、知と業を兼ね備えた類まれな男であった。自分が繰り出す拳をこれだけ交わされたのは初めてのことであった。そして受けから攻めに転じる速さも驚嘆すべきものであった。それに加え、この男は外見からは推し量れぬ熱い心を持っていた。その熱い心が素戔嗚の心も熱く揺さぶるのであった。茨木童子が渡辺綱との対戦を心待ちにしていたように、いつか自分も無心になって頼光と戦っていた。そうしたこと全てがこの信じがたい結末の原因であった。
素戔嗚は膝をついた。傷口からは血が吹き出していた。神と呼ばれるようになった自分であっても、人のように熱く赤い血が流れていた。それを見た素盞鳴はかすかに笑った。大和に破れ、とうの昔に死んでいた身が思いがけず、この世に蘇った。大和に対する積年の恨みは果たせなかったが、信じあえる仲間と出会い、ともに戦うことができた。思う存分戦うことができる相手とめぐり合った。短い時間であったが、最高の時間でもあった。素戔嗚の想いに応じるかのように真っ黒な肌がごく普通の浅黒い肌に変化していた。そして素戔嗚の目が静かに閉じていった。
