素戔嗚は目の前に倒れた金時を見下ろしていた。最強の武神の顔は血で真っ赤に染まっていた。片目はつぶれ、鼻もひしゃげ、顎も半分割れていた。だがその体にはまだ闘気が残っていた。筋肉の塊のような太い両足は、まだまだ戦い足りぬとばかりに、黒々と照り輝いていた。丸太のようなその足で頭を踏みつぶせば、それで金時は死ぬ。それすなわち、人と鬼の戦いの結末の時であった。だがどうしたことか、素戔嗚は目の前の金時をじっと見下ろしていた。
「……どうした……さっさとやれよ……」目を閉じたまま金時がつぶやいた。
「いいのか」
「……悔しいが、あんたの方が強かったってことだ。俺もまだまだだな……」その声音にはなんの屈託もなかった。
「分かった。最後に何か言い残すことはないか」素戔嗚が一歩前ににじり寄った。
金時は目を閉じた。足柄山での思い出、京に来てあの酒場で桔梗や親父と過ごした日々、貞光や季武との出会い、綱との戦い、頼光という類まれな主君に出会った幸せ、いろいろな思いが走馬灯のように頭を駆け回った。金時はうっすらと目を開けた。
「あんた、この世をぶっ壊して、新しい国を作るんだろう。だったら、頼みがある……俺たちみたいなもんでも、精いっぱい生きられて、ちっとばかり幸せだって思える世の中を作ってくれよ」
精いっぱい頑張った。自分の持てるものすべてを出し尽くした。頼光も、貞光も、季武も、綱も、五平も、おっかさんだって許してくれるだろう……桔梗よ、おりゃ頑張ったぜ。お前の声は確かに届いたぜ。ありがとうな、ここまで頑張れたのはお前のおかげだ。一緒に足柄山にいきたかったが、どうやら俺はここまでのようだ。桔梗、幸せになれよ。柄じゃねえが、草葉の陰とやらからちゃんとお前を見守ってやるからな。だから、なんも心配することねえからな……
素戔嗚が足を上げた気がした。金時はゆっくりと目を閉じた。
物凄い音が鳴り響いた。山が震え、地鳴りが遠くの山々にまで伝わった。洞窟の中は砂煙がもうもうと立ち込めていた。その中で言葉が聞こえた。
「……金時、そうした世の中を作るのは、お前たちこそ相応しい……俺はお前たちを信じよう。あのものたちが俺を信じてくれたように……」その言葉とともに歩み去る音が聞こえ、そして消えていった。その言葉は金時の耳に届いていたろうか。だが金時の顔は安らかに、にこりと笑っていた。
「で、結局、あの野郎はどうなったんだ!」貞光が、頼光を背負う金時に向かって怒鳴った。
「知らねえよ、どこかにいっちまったんだろ。そんなことより、そんなに騒ぐと、また血が吹き出るぞ」金時がうるさそうに言った。
「てめえだって、同じじゃねえか。胸を突かれたんだろ」
「そうなんだよなあ、だけど不思議なことに傷が消えてんだよ。確かにぶちぬかれたような気がすんだが、ありゃ、気のせいだったのかな」
「ったく、てめえって奴は肝心なことは何にも覚えてねえ。まあでも、一つだけ確かなのは、俺たちは生き残ったってことだ」
「ああそうだ、まあ、それでいいじゃねえか」金時が笑いながら言った。
「まあな、とにもかくにもこれで俺も堂々と桔梗殿のところに顔を出せるってもんだ。なんと言っても、鬼を倒した英雄の帰還だからな、嫁に来てくれと言ったら、喜びのあまり抱きついてくるかもしれんな」貞光が得意満面の笑みで言った。
「あっ、ちょっと待て、お前にいっとくことがある。桔梗はお前には渡さねえぞ」
「なんだと!」
「あいつは俺の嫁にする」
それを聞いた貞光は、どんぐりのように目を見開いていたが、しばらくすると笑いが止まらなくなったと見えて腹をかかえて笑い始めた。
「……ったく、てめえといると退屈しねえよ。どうやら、てめえとは一生張り合わなきゃならなそうだな。だが、そう簡単には渡さねえぞ、桔梗も天下一の名も」
「なんだそりゃ、なんだかもうお前のものみてえな言い方だな」金時は不満げに言った。
「当たり前だろうが、お前みたいな阿呆はもっともっと頑張んねえと天下一どころか、一丁前の男にもなれねんだからな、そういうことはまずは坂田金時って名に相応しいぐらいになってから言うこった、分かったか金太郎!」
「そりゃ、お前だって同じだ! 嫁に来てくれなんて言葉はな、碓井貞光って名にふさわしい男になってから言うもんだ、荒太郎よ!」
道の真ん中で二人はお互い睨みあったが、しばらくするうちに笑いが込み上げてきた。二人が歩む東の空はすでに薄明かりがさして、夜が開けんとしてた。新しい時代の朝が開けんとしてた。飾りのない男たちの笑い声が大空にこだました。
終
