「リオラさん、ご飯を持ってきましたよ。たくさん食べてくださいね。食べ終わったら、紅茶も持ってきますからね」そう言って、レオンは食事を載せたトレイをリオラの前に置いた。
「……レオン、いつもありがとう」リオラはそう言って、微かに微笑んだ。レオンはリオラに微笑み返したが、その想いは複雑だった。
レオンは、半年ほど前にマナハイムにあるこの家にやってきた。旅の途中で出くわしたレインハルトという騎士に勧められたからであった。レインハルトは人買いに売られたレオンたちを救い出し、人の暖かさを教えてくれた人だった。レインハルトが勧めてくれたこの家の主であるルークという医者もまた優しい人だった。見ず知らずの少年少女たちがいきなり押し掛けたにも関わらず、まるで古い友人が訪ねてきたかのように優しくそして敬意をもって接してくれた。ルークは医者だった。だがその家は病院というよりもまるで市民たちの憩いの場であった。ルークはその日の糧にも苦しむような貧者からは決してお金を取ろうとしなかった。急患がいれば、どこにでもかけつけて患者を診た。そんなルークを慕って人が集まった。取れた野菜をもってきたり、まだ足りないけどと言ってつけていた診察代をもって来てくれたり、何をするわけでもない人まで気軽に集まり、ルークがいればルークと、ルークが診察をしているときは、そこにいる人たちと楽し気に話をするのであった。
レオンは、一緒に来たサムソンたちとともに、ルークの手伝いをするようになった。患者の面倒を見たり、鞄をもってルークと診察に出かけたり、ルークの部屋の掃除や洗濯、食事の準備までするようになった。ルークはそんなレオンを深く信頼し、最近では少しづつ自身が学んだ医術を教えるようになっていた。
レオンは幸せだった。人から信頼され、人に頼られるというのが、こんなにもうれしく、そして誇りを感じるものだと初めて知った。全て、レインハルトの導きのおかげであった。ルークもまたレインハルトを深く慕っていた。だからルークは憩いの時には、レオンたちにレインハルトがかつてこの国をイラルの侵攻から救った逸話やこのマナハイムで起こした奇跡、そしてレインハルトとともにいるはずのリュウとリオラのことを楽し気に話すのであった。
レオンがルークのもとで過ごすようになって三か月ほど経った頃、マナハイムに不吉な情報が届き始めた。最初は偉大な国王ヨハネスの死であった。レオンはヨハネスのことはよく知らなかったが、ルークがその知らせを呆然とした顔つきで聞いていたのが印象的だった。
続いて、西の国境の街ダンにイラルの軍勢が攻め込んできたとの凶報が届いた。マナハイムはダンとは正反対の東の国境の街だったので、身に迫った恐怖ではなかったが、偉大な先王の死と時期を同じくしてかつての敵国が攻めてきたとの一報は、マナハイムの人心に暗い影を投げかけざるをえなかった。
そのイラルの大軍を聖騎士レインハルトがたった一人で壊滅させたとの報が届いたときは、マナハイムの街はまるで神が舞い降りたかのような歓声に包まれ、人々は大いに浮かれ騒いだが、その後に来た最後の凶報は、マナハイムの街を一瞬にして凍り付かせ、レインハルトの心にも深刻な傷を与えた。
レインハルトが背教の罪によって、鋸引きの計により断罪されたというのだ。
その報が届いた直後、人々はその報を信じようとしなかった。だが、かつてこの街の知事であり、現在は司法大臣となったジュダの名のもとに、レインハルトが背教の罪により処刑されたと記された高札が至る所に建てられると、人々は次第にひそひそとつぶやきあい、終いには街中がヒステリーをおこしたように、レインハルトを悪しざまに罵しり始めた。
レオンは人の心が信じられなかった。つい数日前までレインハルトを神のごとく崇めていたのに、たった一枚の紙が張り出されただけで、手のひらを返したように偉大な騎士を貶める。レオンは憤りのあまり、高札の前でレインハルトを罵倒する人々に食って掛かろうとした。だがそれを押しとどめたのはルークだった。ルークは顔を真っ赤にしたレオンに言った。
「レオンよ、あのようなものたちを相手にする必要はありません」
「先生! 先生は平気なんですか、あのレインハルトさんが、あんなひどい言われ方をしているんですよ!」
ルークは真摯な瞳でレインハルトを見つめた。
「レインハルト、あなたはあの高札にあるような恥知らずなことをあのレインハルトが本当にしたと思っているのですか」
「あの方が、そんなことをするわけがありません!」レオンが断言するように言った。
「そのとおりです。あの聖騎士レインハルトがそんなことをするわけがありません。ならばどうして、あなたはそんなに怒っているのですか」
「この街の人々の心変わりに我慢できないからです。先生はかつて、この街に起こった奇跡を僕に語ってくれました。その時には、この街の人々がレインハルトを神のごとく敬い、歓声をもって讃えたとおっしゃっていました……それなのに、この変わりようはなんです! 人とはこんなにも自分勝手で、ころころ自分を変えられるものなのでしょうか!」
ルークはそんなレオンに向かって静かに説いた。
「レオンよ、耳に聞こえる言葉だけに囚われてはいけない。彼らの心の中にも、あなたと同じような思いが少なからずあるのです。だが人は信仰ではなく、恐怖によって動くこともあります。この街のかつての知事、今では国を補佐するあの男が、そう言っているのに対して表立って反意を示すことなど、彼らにはできないのですよ」
「それじゃ、先生も奴らと同じように強者に媚びへつらい、レインハルトさんが悪しざまに罵られているのを黙ってみていろというのですか!」
「そうではありません。レオンよ、今私たちにとって大切なのは、周りの声に惑わされることなく、何が真実であるのかをしっかりと見極めることです。一時の感情に囚われて、口先ばかりの議論をするのは何の意味もないことだと思いませんか――レオンよ、死を賭しても自分の信念を貫かねばならぬときは必ず来ます。でもそれはこんなところでも、あのようなものたち相手でもないのですよ」
レオンはその言葉に押し黙った。確かにそのとおりだった。レオンは自分の浅慮が恥ずかしくなった。だがそれでも思うのだった。こんなことでは神を敬う心は廃れてしまうのではないか。心に神を抱いていたとしても、世の声に流されて、それが当たり前のように思う気持ちが次第に心を蝕んでいくのではないか。
そんなレオンの想いを見透かしているようにルークが付け加えた。
「――神はまだ私たちを見捨てていません。これは神がお定めになった大きな歯車の動きの一つなのでしょう。そうでなくて、どうしてあの聖騎士レインハルトが人の手によって処刑されることなどありえましょう。おそらく、レインハルトは自ら命を差し出したのでしょう。そしてそれはきっとあの少年、リュウに関係しているのです。待ちましょう、リュウを。必ず、神は私たちのもとに新たな知らせをもたらしてくれるはずです」
そして、その言葉は現実となった。
秋も終わりに近づき、落ち葉が道を覆うようになった頃、ルークの家の前に旅装姿の男と女が立ち止まった。男は、玄関の前で落ち葉を掃いていたサムソンに声をかけた。
「おい、サムソン、元気そうじゃないか。どうやら、ルークにはよくしてもらっているようだな」
サムソンは、その声の主を見ると目を丸くして、大きな声をあげた。
「リュウ、リュウさんじゃないか! 帰ってきたんだね、みんな、あなたの帰りを待っていたんですよ!」
「そうか、そりゃ、うれしいな。ところでルークはいるかい? ちょっと、いろいろ面倒なことがあってな。また、しばらくここのやっかいにならないといけねえんだ」
サムソンはその言葉を聞くと、リュウさんが帰ってきた、リュウさんが帰ってきたと騒ぎ立てながら中に飛び込んでいった。リュウは苦笑いしながら、その様子を見ていたが、すぐにバタバタと音がして懐かしい顔が現れた。
ルークは、リュウを見ると言葉を失ったように立ちすくんだ。ルークの前に立つリュウは、ここを旅立ったころとは見違えるほど逞しく、熱く強い眼差しを持っていた。レインハルトが望んだとおり、リュウが大きく成長しているのをルークは一目で感じ取った。
マナハイムに戻る旅路の中でリュウはいくつかの町を通り過ぎたが、レインハルトの一件は世間を大いに騒がせていた。人々は手のひらを返したようにレインハルトを悪しざまに罵り、嘲っていた。だがリュウは、そんな人々を見ても、何も言わず黙って通り過ぎるだけだった。このこと全てがジュダのたくらみの結果であることは分かっていたし、それに人々がどう思おうと、レインハルトが真に神に選ばれた男であることは真実であり、そのことを本当に理解しているのは自分だけだと感じていたからだった。
加えて、リュウの中では人に対する思いが少しづつ変わってきていた。リュウがかつて住んだ孤児院の施設長、学校の生徒、酒場に出入りする欲にまみれた男たちと女をだしにしてそいつらを食い物にする店主、わずかな金で人を殺そうとする悪漢、金に目がくらみ命を救ってもらった恩も忘れてリュウを売った売人、豚に食われたあの汚らわしい警察署長、そいつに怯えて目の前の不正を見て見ぬふりする多くの市民、ゴランの執政官ザケエスや王の騎士を名乗るのも恥ずかしいバラム、そして絶対に許すことのできないあの奸智に長けた男。人とはみなこうしたずるがしこく、己の欲得しか考えようとしないものたちだけだとリュウは思っていた。
だが、千人力のマッテオやイラルの戦士イロンシッドのように、自身の誇りのために命を投げ出す男たちもまたいた。ウルクの精神病院で幼いリュウを毎夜抱きしめてくれた看護婦、ウルクの町はずれの屋敷で起こった虐殺事件をずっと心に留めて、その犠牲者であった自分を見て涙を流してくれた老刑事もいた。預言者エトは自分を引き取り、短い時間であったが、自分に世界と言葉を教えてくれた。そういう人たちによって自分が生かされてきたんだとようやく知った。
そして何よりもレインハルトという男の傍にいることで、リュウは大きく成長した。レインハルトはまさにリュウにとって師であり父であった。信頼、誇り、愛、正義、今までリュウが馬鹿にしていたものがどれほど貴重で、生きる上で大切なものか、その身をもって教えてくれた。
かつてレインハルトは言った。
お前が戦うべき相手は昨日のお前なのだ。昨日の自分より強くなるために日々努力を続けることなのだ。だから最も強く偉大なものは死ぬ間際まで戦い続ける。そして、それこそが生きるということの真の意味でもあると。
他人と比べようとするから嫉妬や妬み、優越や不遜が生まれる。レインハルトは誰よりも強く、誰よりも偉大な男だったが、驕り高ぶることは一度もなかった。子どもを愛し、弱者を救い、身を慎み、そして自分でないもののためにその命を捧げ、自身の言葉通り、死ぬ間際まで戦い続けて、死んでいった。その姿はリュウの心に大きな感動を残した。その教えはリュウの心にしっかりと根付き、今や微動だにせぬほど、強固なものになっていた。
「……リュウ、立派になって」ルークが目に涙を湛えて言った。
「ルーク、レインハルトは俺とリオラを救うために自ら死んでいったよ……」リュウは寂しげに笑った。
「やはりそうでしたか……」
ルークはそう言いかけたが、これまでずっとリュウの後ろに立っていたリオラを見て、言葉を失った。
「リュウ……リオラは一体……」
ルークの知るリオラはそこにいるだけで周囲の人が笑顔になるような、そんな明るく、愛らしい少女だった。だが、今目の前にいるリオラは、顔かたちは変わらないが、心ここにあらずと言った風で、ルークの顔を見ても何の感情も示さなかった。
「……リオラはレインハルトの死に耐えられなかったんだろう。感情を失い、これまでの記憶を一切忘れてしまったんだ」そう言って、憐れむようにリオラを見た。
「……なんという……可哀そうに……リオラ、あなたにとっては身を斬られるより辛かったことでしょう……」
ルークはそう言うと、虚ろな目をしたリオラを抱きしめた。
「……リオラ、あなたは決して一人ではありません。今、あなたの傍にはリュウがいます。リュウがあなたをしっかりと守っています。レインハルトも必ずやあなたを見守っていることでしょう。あなたはみんなに愛されている。あなたは人の心に光を与えてくれる。あなたの存在がどれほど人々に癒しを与えてくれたか……リオラ、今、あなたの心はたった一人孤独に打ち震えているかもしれません。でも、安心なさい。あなたはきっと元気を取り戻します。それまで、ずっと私たちがついています」
リオラはされるがままに立っていたが、不思議そうな顔でリュウを見つめた。そんなリオラにリュウは静かに笑いかけた。
そしてそれ以来、リオラとリュウはルークの家で過ごすことになった。
それから半年、ルークの適切な診療とこの家が醸し出す暖かい雰囲気はリオラの心に変化をもたらしていった。リオラは少しづつ感情を取り戻していった。過去のことは思い出せないまでも、言葉を交わし、笑うことができるようになっていったのだった。
