翌日、ジュダは王宮に赴くと、勝手知ったる我が家とばかりにアイン国王のプライベートな空間である中庭にある檻の中に入っていった。そこはアインの忠実な家来であるエルを閉じ込めている檻であったが、ジュダは躊躇なくその中に入っていった。
鬱蒼と茂る木々の中を歩いていくと、いつものようにアインが椅子に座して、エルが牛肉を喰い漁るのを眺めていた。ジュダはアインに近づくと、アインの背後で一礼した。
「――陛下、少しばかりお話が」
「――ジュダか。何用だ」
アインは、この檻の中で自分に語り掛けられる男が誰であるか既に承知しているように、後ろを振り返ることなく言った。
「エトが死に、レインハルトが消え去り、民は神を信じる心を失っております――ですが、長年、信じていたものを完全に捨て去るというのはなかなか難しいものです。何よりも神が自分たちに罰を与えるのではないかという恐怖の念を拭い去るには、さらなる企てが必要です」
「神などいらぬと声高に叫ぶ癖に、神の怒りに対する恐れだけは拭い去れないというか、民とは随分、自分勝手で気ままなものたちであることよ。そんなものたちのために、わざわざ助け舟をだしてやろうというのか」
「民はそれくらいでちょうどいいのです。右と言えば右、左と言えば左と、疑いもせず盲目に従うように仕向けなければいけません。そのためには彼らの不安の種を除き、ささやかな欲求を満足させてやる必要があります」
「ジュダよ、私が望むのは愚鈍な豚が群れる世界ではないぞ。人という存在に真に値するものが君臨する世界だ」
「よく分かっています。ですが、そのためにも、あなたの力をさらに高めなければなりません。まずは神を完全に滅ぼす、そうすればあなたが神の如き存在になります。その時こそ、あなたの理想が成就する時です。ですので、いましばらくは愚鈍な豚どもに付き合ってやらなければなりません」
「まあいい。それでどうするというのだ?」
「まずは、国教会の大司教は処刑し、教会そのものをつぶします。そして全て聖堂会に吸収させます。なんと言って国教会は神の教えを説くことを建前としていますので、今ここに至っては、私たちが進む道の障害にしかなりません」
「大司教のアレクサンドルは、そなたと昵懇の中ではなかったのか、やつもお前が牛耳る聖堂会のマスターとやらの一人というではないか。それに聖堂会も国教会も同じ穴の貉。国教会を聖堂会に吸収したところで、神を奉じる組織が残ることに違いないではないか。そもそも国教会を潰すといっても、いったい何の名目で潰すというのだ」
「聖堂会の真の目的は神を貶め、あなたを至高の存在に導くことです。聖堂会のこれまでの活動は、全てのそのための布石に過ぎません。あの大司教はそんなことは何も知りません。あれもただの豚です。しかも、最も汚らわしい強欲な豚です。私はあのものたちが犯してきた罪を際限なく並べたてることができます。それを民に伝えるだけで国教会の権威は地に落ち、民の心は完全に神から離れます」
「なんの罪もない聖騎士レインハルトですら葬ったそなたならば、国教会を葬ることなどいとたやすいことであろうな――分かった、お前の好きなようにするがいい」
「ありがたき幸せ」
ジュダが一礼し、その場を去ろうとした時だった。不意にアインが口を開いた。
「レインハルトに止めをさした男、たしかリュウとか言ったか――やつは今何をしている」
その言葉に、自分が秘めている関心をアインもまた持っていることにジュダは軽い驚きを覚えた。
「あのものは今はマナハイムに戻り、リオラという連れの少女の看病をしております」
アインはその言葉を聞くとしばらく黙っていたが、再び言葉を続けた。
「――レインハルトは処刑されたのではない、自ら死を選んだのだ。それは全て、あのリュウという男のためだ。それが分からぬお前でもあるまい。すなわち、リュウという男は、レインハルト……いや神が残した最後の刃だ。そういう男をなぜそのまま放置している」
「ご安心ください。やつがエトやレインハルトから何か特別な使命を与えられていることは分かっています。おそらく、それはエトが残したあのリバイアサンという預言と無関係ではありますまい」
「……リバイアサン……三年後、いや既に二年後か、その時に世界を滅ぼすという怪物か――本当にそんなものが現れるというのか」
アインの問いにジュダはかすかに微笑んだ。
「おそらく、リバイアサンというものは実在しています」
その言葉を聞いたアインは、初めて後ろを振り向いた。
「――ジュダよ、リバイアサンとはお前たち聖堂会を滅ぼすために神がこの世に送り込んだ怪物というではないか。つまり、お前自身を滅ぼさんとするものだぞ」
「陛下、私はそのリバイアサンすらも我々の計画の中に織り込んでいます。リュウはリバイアサンをあぶりだすための道具です。ですから、今のうちは好きなようにさせます。ですが奴の周りには常に私の目が光っていますから、何の心配もいりません」
ジュダの言葉を聞いたアインはふっと笑った。
「――いつもながら、お前という男には呆れるしかない。いったい、どこまで先のことを考えているのやら」
「陛下、陛下は完全なる存在としてこの世に生を受けました。ですがただ一人、神だけがあなたの上に立ち、あなたのなさんとする偉業を阻んでいます。私はそれが許せない、神があなたという存在の上に立っていることが本当に許せない。だからあなたの歩まんとする道を阻む神を殺し、あなたを至高の絶対者に立たせる。ただそれだけなのです、それだけが私のただ一つの願いであり、目的なのです」そう言って、ジュダは薬指がなくなった左手をアインの前にかざした。
ジュダの左手を見やったアインは顔を前に戻すと、小さな声で呟いた。
「――まあ、いい。お前とても人の子、人に語れぬ過去もあるのだろう――私は違う。私は過去を持たぬ、いや過去を捨てた。母は身を飾ることしか頭にない愚かな女で、父は父とも呼べぬ愚かな豚だった。私にとって過去はなんの意味も価値ももたぬ。私にとって最も重要なのは未来だ。私がどのようなものとなり、どこまで高みを極められるか、それだけが私にとってなによりも重要なのだ」
その言葉には、かすかな寂しさのような響きが感じられた。ジュダは、そんなアインに言葉を掛けようとしてかすかに口を開いたが、結局言葉は出てこず、孤独な道を歩まんとする王の後姿に一礼をすると、静かにその場を去っていった。
