メキドの教会は、多くの人で賑わっていた。なんでも、今日は神を称える日だということで、リュウがこの教会の世話になって以来、最も多くの人々が教会を訪れていた。
リュウは広場に備え付けられている椅子に座って遠くからその様子をみていたが、どうやらフィリップ神父の説教が終わったと見えて、人々がぞろぞろと教会から出てきた。リオラとレインハルトの姿も見えた。その後ろにはたくさんの人に囲まれて挨拶を交わすフィリップ神父の姿もあったが、神父の隣には、もう一人かなり老齢と見える男がいて、人々はその男に対しても挨拶を交わしているようであった。
リオラとレインハルトたちはリュウが椅子に座っているのを見つけると、こちらに向かって走ってきた。
「リュウさん、フィリップ神父の説教はすごくよかったですよ。僕、あんなに分かりやすい説教は初めて聞きました」
リュウのもとにたどり着いたレインハルトが、少年らしい興奮を讃えて言った。
「レオンの言うとおりよ、リュウ。あなたもいつまでも片意地はってないで、話をきけばいいのよ。そうすれば、神様がいつも私たちの周りにいらっしゃって、私たちを守ってくださることがすぐに分かるのに」リオラもリュウを叱るように言った。
「俺には、俺の考えってもんがあるんだよ。神がどんなやろうで、何を考えているかは絶対暴いてやるが、それは俺のやり方でやらせてもらう――ところでそんなことより、フィリップ神父と一緒にいるあの男は誰だ?」
リュウはそう言うと、リュウのもとに向かってくるフィリップ神父ともう一人の男を見つめた。その男は、どうやら目が見えないようで、杖をたよりにフィリップ神父に腕を抱きかかえながら、ゆっくりこちらに向かっていた。
「あの方は、アンドレ神父といって、フィリップ神父の前のこの教会の神父様なんだって。最近あまり体調が思わしくないそうなんだけど、今日は神の祝祭日ということで教会にわざわざいらっしゃって、それを見つけたフィリップ神父がわけを話して、少しだけお話しさせてもらうことになったの」
リオラの言葉を受けて、リュウは改めてその男を眺めたが、顔には深い皺が走り、かなりの年月を生きてきた老人のようであった。
フィリップ神父はアンドレ神父に語り掛けながら、決して急がせることなく、ゆっくり歩いてきたが、ようやくリュウたちのところまで来ると、リュウに向かってアンドレ神父を紹介した。
「リュウさん、この方はアンドレ神父です。私の前任者で、あなたが生まれたころ、この教会の神父だった方です。この方なら、あなたが知りたいことを知っているかもしれません」
フィリップ神父はそう言うと、アンドレ神父をリュウが座っていたベンチに座らせた。
「アンドレ神父、今、あなたの目の前にいる方が、さきほど話した若者です。今年十六歳になるのですが、幼少の頃の記憶がないそうなのです。ただ唯一、メキドという言葉を漏らしたことがあるということなんだそうです」
アンドレ神父はその言葉にうんうんと頷くと、見えないリュウに向かって、言葉を掛けた。
「あなたのお名前はなんというのですか」
「リュウ……リュウといいます」
「リュウ……十六年前……まさか……」
アンドレ神父は急にふるふると震え出し、そして、震える手をリュウの方に伸ばしてきた。リュウは瞬間思い迷ったが、その手を握り返した。
「……リュウ、あなたなのか、あの赤子だった子はあなたなのか……」
アンドレ神父はリュウの手をしっかりと握ると、心に秘めるものを吐露するように言った。
「アンドレ神父、何か思い当たることがあるんですか?」
フィリップ神父が脇から声を掛けた。アンドレ神父は震える顔で頷き、まるで目の前のリュウが見えているかのようにリュウの手を固く握ったまま、リュウの顔をまっすぐに見つめてた。
「……まさか、あなたが再び私の前に現れようとは……そして、こんなにも大きく成長していようとは……神よ、奇妙な縁によって生まれたこの子を、こんなに立派に成長させてくださり、感謝いたします……」
アンドレ神父はそこまで言うと、いったん言葉を切り、神に感謝を捧げるかのように深く目を閉じた。だが、再び目を開けると、今度は厳しい顔つきで、リュウの方を見つめた。
「リュウよ、これから話すことはあなたにとって辛いことかもしれない。あなたの人生を左右することになるかもしれない。それでもあなたはそれを知りたいと思いますか」
「……俺は自分の過去をしらねばなりません。それは私を我が子のように育てくれた人との約束であり、自分が歩む道を定めるためにどうして必要なことなんです。覚悟はできています。どうか、あなたの知っていることを全て教えてください」
そう答えるリュウの顔には、逡巡や戸惑いの念は一切なかった。そこには強い覚悟と自分自身を知りたいという純粋な思いだけがあった。
「あなたが、こうして老い先短い私の前に現れたのも神のご遺志なのでしょう。ならばこれ以上なにも言うことはありません。あなたに伝えましょう、あなたの生まれたそのわけと真実を」
アンドレ神父はそう言うと、かすかに目を閉じて、訥々と語り始めた。
「――ちょうど、十六年前、この街に恐るべき殺人鬼が現れました。その殺人鬼はモロクと言う男で、傍目にはごく普通の男に見えました。この教会も幾度か訪れ、私も何度か話をしたことさえあったのです……私は、この男の中に潜む悪を見抜くことができませんでした、もし、もっと早くこの男が抱える闇を分かってあげられたら、あんなに恐ろしいことにならなかったかもしれません。私の目がこんなにも弱ってしまったのは、私がいかに盲目であったかを神がお叱りになったからかもしれません……すいません、話がそれてしまいました。いずれこの男はごく普通の男として、この街で暮らしていたのです。ところが、この男の心は常に殺人への衝動に駆られていたのです。そして、この街で一件、二件と犯人不明の殺人が起こるようになり、その間隔も次第に短くなっていきました。被害者には何の接点もなく、人通りのないところで、ナイフで心臓を一突きという手口で、物証も乏しく、警察は手がかりをつかむことさえできませんでした。そうしたことに図に乗ったのか、モロクは殺人現場に一切れの紙を残すようになりました。その紙にはただ一言『獣』という字が書きこまれていました……モロクが何を思って『獣』という字を書いたのかは分かりません。ただ、今私が思うには、人の心には獣が棲んでいる。それが誰であったとしても、わたしや、あなたであってさえも……そんな叫びが心の中で荒れ狂い、その叫びを誰かに知って欲しいと思ったのかもしれません……」
恐ろしい話だった。リオラもレインハルトもフィリップ神父もごくりともせず、その言葉を聞いていた。リュウも何も言わず黙って聞いていた。だがアンドレ神父のしゃべる話は、リュウの心を熱くさせていた。その熱がリュウの手を通じて、アンドレ神父に伝わっていた。アンドレ神父はリュウという男の体に流れる心の熱さを感じながら話をつづけた。
「――街は恐慌状態になりました。戒厳令がしかれ、出歩くものは一人もいなくなりました。誰もが疑心暗鬼になり、身を顰めるようにして過ごしていました……そして、あの日を迎えたのです。人を殺すことができなくなったモロクはついに精神に異常をきたし、ナイフを持って家を飛び出しました。そして隣家に押し入って、無差別に人を殺しまくったのです。結局、十六人が犠牲になりました……モロクは最後の一人を殺すと、そのまま街から飛び出していきました。あなたも既にご存じの通りこの街は国境の街と言っても、辺境の地ですから、城壁などは何もなく、いわばどこからでも入り込めるし、どこからでも逃げることができます。警官隊が着たころには、モロクはすでに逃げ出した後でした。捜索隊が組織され、辺り一帯を隈なく探し回りましたが、結局モロクを見つけることはできませんでした。ところがある日のことです。この街に住むナオミという女が、ふらふらと帰ってきました。このナオミという女はいわば痴愚で、満足にしゃべることもできないのですが、私はこの女を哀れに思っていて、常日頃から、なにくれとなく世話をしていました。そんなこともあってかナオミは私のところにやってきたのです。ナオミは衣服がはだけ、明らかに誰かに凌辱された跡がありました。私はナオミに何があったんだと聞きました。するとナオミは、モロク、モロクと言うのです……予想していたとは言え、その言葉を聞いたとき、私は大きな衝撃を受けました。ナオミはそれだけ言うと、疲れ切ったように、寝入ってしまいました……そして、数か月後、明らかにナオミの腹が大きくなっているのに皆が気づきました。同時にナオミの腹の子どもの親はモロクに違いないという噂が広まってしまいました。街の人の中には、今のうちに殺してしまえというものさえいました。殺人鬼と痴愚の間に生まれてくる子供です。一体どんな子がうまれてくるでしょう。モロクに殺された人々の関係者も多くいました。人々が怒りや不安に駆られたのもやむをえなかったのです。ですが私は人々に言いました。生まれてくる子供に罪はないのだと、そして生まれてくる子供はこの教会で引き取り、責任をもって育てるともいいました。それで人々はようやく納得してくれました。そして、ある晩、ナオミは子供を産んだのです。産婆が生まれてきた子供を私に見せにきました。私の心に不安がなかったと言えば噓になります。だから、生まれてきた赤子が五体満足で、普通の可愛らしい赤子であることを見て、心の底からほっとしたものです。ですが、いささかびっくりしたこともありました。ナオミが産んだ子、なんとそれは双子だったのです」
双子――思いもかけぬその言葉を聞いて、リオラもレインハルトもフィリップ神父も驚いたが、一番衝撃を受けたのはリュウだった。
リュウがいつも見る夢。荒野の中をたった一人で歩くリュウ、だがどこからか泣き声が聞こえてきた。一体誰の泣き声なのか、もしかして自分が泣いているのかもしれないとも考えた。一人で歩いていていたが、いつも誰かが傍にいるような気もしていた。それは一体誰なのか、それはリュウとともに生まれたもう一人の子だったのだろうか……
そんな思いがリュウの脳裏を過ったが、その想いを振り払うと、再びアンドレ神父の話に集中した。
「――双子であっても、私にとっては可愛い子どもに過ぎませんでした。私は、その子どもたちを育て始めました。ナオミもそれが自分の我が子であることは理解しているようで、幸せそうな顔でお乳をあげていました。私は、その子たちに名を授けることにしました。神がその子たちを守ってくださるよう祈りを込めて、最初に出てきた子にはリュウと、後から出てきた子にはロイと名付けました。ナオミもそのことを分かったのか、リュウ、ロイと呼んで可愛がっていたのです――それから、三年が経ちました。二人の赤子はすくすくと成長していきました。どちらも男の子らしく、頭をくつけて遊んでいたと思ったら、いきなり喧嘩をし始めたり、この広場を走り回って、それはそれは本当に賑やかな日々でした」
アンドレ神父はそう言い、初めて視線を広場の方に向けました。その視線を追うように、リュウたちも広場を見た。教会の前にある広場、その真ん中には芝が張った箇所があり、今まさに子どもたちが戯れて遊んでいた。かつて、あの子たちと同じようにリュウともう一人の子が遊んでいた。皆がその想いを抱いて感慨深そうに子どもたちを眺めた。アンドレ神父は顔をリュウの方に戻すと、ふっとため息をついた。
「――あの日々が、私にとって一番幸せな時だったのかもしれません。あの、なんでもないようなごく当たり前の日々が、私はそれが永遠に続くような気さえしました……だが、やはり時は動いていくのでした……リュウとロイが生まれてから三年と幾日が過ぎたある夜、ナオミとリュウとロイは忽然と教会から姿を消しました……私は気が狂ったようにナオミたちを探し回りました。住民にも手伝ってもらって、近隣の山々を探し回りました。だが、結局、ナオミたちは二度とここには戻ってきませんでした。私は魂が抜けたようになり、教会の務めさえ疎かになるようになりました。そして、ついには退任願いをだし、この教会の神父であることをやめ、一人ひっそりと暮らすようになったのです……」
アンドレ神父は全てを語り尽くしたことを示すように、リュウの手を放した。それはあまりに辛い過去であった。十六歳の少年にはあまりに酷な話であった。リュウは殺人鬼の父と痴愚の母の間に生まれた子であったこと。生まれたのは双子で、その子たちはリュウとロイと名付けられたこと。そして、彼らはナオミとともに再び、どこかに消え失せてしまったこと。
フィリップ神父はリュウに語るべき言葉が見つからなかった。リオラは、労わるようにリュウの肩に手を置いた。すると、リュウは再びアンドレ神父の手を握った。
「アンドレ神父、事実を話していただきありがとうございます。そして、俺と俺の母、そして俺の兄弟を守っていただき、ありがとうございます。愛情をもって接していただきありがとうございます……俺は、これまで自分はたった一人、孤独な存在で誰も自分のことなど構っちゃくれないと思っていました。でも、それは大きな間違いでした。俺は本当に多くの人たちに守られて生きてきたんだと知るようになりました。あなたもまた、俺のために、自分の人生の一部を捧げてくれました。そのことに本当に感謝します」
リュウの言葉を聞いていたアンドレ神父の肩が震えていた。見えない目から涙がこぼれていた。
「リュウ、私は自分が恥ずかしい……私はあなたたちが自分を去った後、自分の人生はなんの意味があったんだろうとひどく無力感に襲われた。神はいったい何をお考えなんだろうとその御心を疑ってしまった……だが、ちゃんと意味があったのだ、全てはあたなが成長するために必要だとお考えになった結果だったのだ……リュウ、リュウよ、私の方こそ、ありがとう、今日まで生き永らえてきたが、最後の最後にあなたは私に私が生きた意味を教えてくれた。本当に、ありがとう……」
アンドレ神父は添えられたリュウの手をもう一度強く握り返した。その手からは、さきほどはなかったほんのりとした暖かさがあった。その暖かさがリュウの体に染み入っていた。
