「書物を読むのはごく悪うございます。有体に云うと、読書ほど修業の妨になるものは無いようです。私共でも、こうして碧巌などを読みますが、自分の程度以上のところになると、まるで見当がつきません。それを好加減に揣摩する癖がつくと、それが坐る時の妨になって、自分以上の境界を予期して見たり、悟を待ち受けて見たり、充分突込んで行くべきところに頓挫ができます。大変毒になりますから、御止しになった方がよいでしょう。もし強いて何か御読みになりたければ、禅関策進というような、人の勇気を鼓舞したり激励したりするものが宜しゅうございましょう。それだって、ただ刺戟の方便として読むだけで、道その物とは無関係です」
引用:『門』(著:夏目漱石)
誰もが知る文豪の中の文豪。千円札でもお馴染みの夏目漱石。
この方も名作がたくさんあるが、敢えてこれを選んでみた。
これを読んでどういう感想を持つだろうか。
この文章は、悟りを開くのに仏教の問答集など読むのは無駄だ、変に当て推量するようになって毒だからおよしなさいと先輩の僧が寺に来た主人公の宗助に教えているというものだ。
だが僕にはなにかそれ以上の響きを感じてしまうのだ。
僕たちは本を読んで、新聞を見て、テレビを見て、人の話を聞いて、何か実際見たり聞いたりしたようなそんな錯覚に陥ることがままある。
そうした中途な知識をまるで血肉を削った体験で得た知識と勘違いして、あれはねとか、それはそういうものだなどと尤もらしく語ってしまう。
おそらく漱石はそういう生半可な知識で終わるな、本当の知識や道とはさらに奥にあるのだと言っているような気がするだ。
明治、大正という激動の時代を生き、日本近代文学の先駆けとなり、今では日本の文豪として最も世に知られるあの夏目漱石がそう語る。
そこに僕は言うに言われぬ深みを感じるのだ。
本を読み、そこで得た何かの思いを心に刻み、新たな人生を生きる。
やはり本当のドラマは人生の中にこそあると思うのだ。
ここから先は、頂戴したコメントとそれらに対する僕の一言です。
「人生は百者百様でそれぞれ見るもの感じるもの違いますからねぇ……。本はそれ自体に役立つ知識や思想が収められていますが、やはりそれで完結出来る程の要領にはならないのでしょう。影響を受け指針となるべき本を友とし自ら考えることが大切」(Aさん)
「寺山修司の「書を捨てよ、街に出よう」に通じる言葉ですね。彼もまた書の限界を覚えこの言葉を口にしたのでは、と思います。自分の好きな言葉に「一の行動は千の言葉に勝る」と有ります。実際その通りであり、案ずるより生むが易しはあらゆる場で通じる事でしょう。しかし自分は「千の言葉も一の行動の為」と言う言葉も捨てがたく、未だ未熟を晒す次第です。要は慎重になるか・大胆になるか自分で選べ―――…と言う話ですが、それがすぐ出来ないから、人間って奴は難しい」(Gさん)
「それでも知識は必要だけれど、身を持って体験した事柄には敵いませんからねぇ……。深い……です!」(Bさん)
夏目漱石を知らない人はさすがにいないでしょうね。
それだけ、夏目漱石という存在は大きいのだと思います。
この「門」という作品は、前期三部作と呼ばれるものの一番最後の作品で、後期三部作の一番最後の作品が、かの有名な「こころ」という作品です。
僕は名作を読むべきだと言ってきましたが、名作も数限りなくあって、どれを読んだらいいか迷う人もいるでしょう。
そういう方は、ぜひ、夏目漱石の「こころ」を読んでみてください。
ドストエフスキーは人間の精神に深く切り込みますが、日本で言うならば、やはり夏目漱石に勝るものはいないと思います。
それほどに、「こころ」という作品は人間の精神、心というもののあり様を抉り出している。
人間の心がどれだけ深いか、人間の心がどれだけ闇に覆われ、そしてそういう中でもどれだけ光に憧れるか。
そして、文学とは人間の心を極限まで追求し、読む人の心を抉るものだと僕は思っています。