渓流が流れて来て断崖の近くまで来ると、一度渦巻をまき、さて、それから瀑布となって落下する。悟浄よ。お前は今その渦巻の一歩手前で、ためらっているのだな。一歩渦巻にまき込まれてしまえば、那落までは一息。その途中に思索や反省や低徊のひまはない。臆病な悟浄よ。お前は渦巻きつつ落ちて行く者どもを恐れと憐れみとをもって眺めながら、自分も思い切って飛込もうか、どうしようかと躊躇しているのだな。遅かれ早かれ自分は谷底に落ちねばならぬとは十分に承知しているくせに。渦巻にまき込まれないからとて、けっして幸福ではないことも承知しているくせに。それでもまだお前は、傍観者の地位に恋々として離れられないのか。物凄い生の渦巻の中で喘いでいる連中が、案外、はたで見るほど不幸ではない(少なくとも懐疑的な傍観者より何倍もしあわせだ)ということを、愚かな悟浄よ、お前は知らないのか。
引用:『悟浄出世』(著:中島敦)
中島敦と聞けば、誰しも「山月記」や「李陵」が頭に浮かぶだろう。
もちろん、それらも素晴らしい作品だと思う。
だが僕はある時期、ここに出てくる悟浄と同じような思いを持っていたことがあった。その時、たまたま読んだこの本の一節は鮮明に僕の心に響いた。
そして今でもこの言葉は面倒なことや辛いことが迫ったときに、お守りのように心に浮かぶ。
人生は時に辛く厳しいことがたくさんある。
仕事に限っても、今日は行きたくないなと思うことは誰だってしょっちゅうあるだろう。でも案外行ってみれば、渦の中でバタバタとあがいているうちになんとなく一日が終わっているということも知っている。渦の中であがくこともそれほど大変ではなく、終わってみればある種の達成感やら満足感すら感じていることに気づいている。
たまには逃げることを大事だろう、様子をみることも必要だろう。
でもやっぱり、そこにぶつかっていかないと先には進めないと思う。
僕は逃げて安心を求める人生を望まない。
どうせなら全身でぶつかって、あがきにあがいて、その中にこそ自分の居場所と安心を見出したいと思っている。
その心持の原点は、この文章にある。
ここから先は、頂戴したコメントとそれらに対する僕の一言です。
「困難に向かってぶつかっていく人生……をやっていたつもりではありましたが、必ずしも良い結果にはならなかったなぁ……と今更ながら思います。後悔とかではないんですけどね。大体横合いが入って踠く人生を辿っています、現在進行形で。それでも足掻くしかないんですよねぇ……愚痴りました、スミマセン」(Aさん)
「う~ん。。。。世の中の人達がぶんちくさんみたいに強い心を抱いていたらなぁ。。。困難な出来事を自力でチャンと解決してさらに人として成長出来るのになぁ。。。」(Bさん)
「そうですよね……逃げていては欲しいモノは掴めないことが多いかと。どうしても逃げなければならないときもあるにはありますが。(良く言えば戦略的撤退ですな💦)」(Cさん)
中島敦は、歴史ものが多いが、その中に独自の解釈を用いたものが多いような気がする。そう言う意味では、僕の志向する書き方に近くて、とても親近感がある。
誰もがそうだと思い込んでいるものに、違う角度から光を当てて、新たな息吹を与える。
そうするとなんだか馴染みのキャラクターも物凄く新鮮に映ってくる。
ただそのためには原作がしっかりと頭に入っていなければならない。
原作に精通しているからこそ、独自の解釈に味が出てくるのだと思う。
これはファンタジーでもミステリーでもそうだが、僕らアマチュアの作品はそもそもの世界の知識があまりにも不足していると思う。
ただの空想、そうだろうという思い込み、もしくは所詮架空の物語なんだから別に細かいところはどうだっていいだろうというようなある意味、開き直り。
だから薄っぺらいと言われる。
だから途中で飽きられる。
だからエピゴーネン、どこかで見たような作品だと言われてしまうのだ。
僕が今書いている平安朝の冒険物語。自分なりに理解していることもあるけど、やっぱり分からないことも多い。
その時はネットで調べたり、図書館でその関係の本を見たりして、補強しながら書いている。中島敦には遠く及ばないまでもなんとか自分なりに努力して、物語にリアリティを吹き込もうとしている。
僕が一番大事だと思う心の叫び。
だが、それをどう読者に伝えるのか。
「人間失格」の太宰治、「悟浄出世」の中島敦、それぞれに作風は違うが、どちらもしっかりと考えられた世界観の中で読者に突き付けている。
もしあなたが、ライトノベルのように、キャラに絶叫させればそれでいいと思っているとしたら、あなたの書き手のとしての成長はそこで止まるだろう。
名作は読んでいても面白くないという人がいる。
それは否定しないし、僕だって、まだ読んでない名作は山ほどある。
だけど、自分の好きな本ばかり読んでいては成長できない。
何を読んだらいいか分からない?
だったらまず図書館にいけばいいと思う。
そして、文学コーナーにいって、どれでもいいからそこに並んでいる文豪の全集を漁ってみるといい。
そして、なんとなく自分の趣味に合いそうな文豪がいたら、それ全部読んでみたらいい。
僕はそうして宮沢賢治も森鴎外も太宰治も芥川龍之介も全部読んだ。
書き手として成長したいと思ったら、そろそろ楽しむためでなく学ぶために本を読み始めるべきだと思う。
図書館にいけば、世界中の名作をただで好きなだけ読める。
僕が好きな言葉で、旧約聖書にこんな言葉がある。
――暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える――(『イザヤ書45.3』)
宝は実はすぐそこにあるのだ。それを自分のものにできるか、それはまさに自分次第なのだと思う。