お釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっとみていらっしゃいましたが、やがて犍陀多が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうなお顔をなさりながら、またぶらぶらお歩きになり始めました。自分ばかり地獄から抜け出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、お釈迦様のお目から見ると、あさましく思し召されたのでございましょう。
しかし極楽の蓮池の花は、少しもそんなことにはとんじゃくいたしません。その玉のような白い花は、お釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆらうてなを動かして、その真ん中にある金色の蕊からは、なんとも言えないようなよいにおいが、絶間なくあたりへあふれております。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。
引用:『蜘蛛の糸』(著:芥川龍之介)
これは、なんと言ったらよいのだろうか。
ただの小説だといってしまえばそれまでなのだが、どうもこのお釈迦様には純粋に共感できないものがある。
天上にいらっしゃる救い人たちは、こんな風に暇つぶしに蜘蛛の糸を垂らし、ああ、やっぱり沈んでいったか、あさましいものだ。ところでそろそろお昼時かななどと、そんなようなものなのだろうか。
もしそうだとしたら、ずいぶんな話だと思う。
芥川龍之介がどういう思いでこれを書いたのか分からないが、明らかにそういう思いを感じさせる文章だということは確かだと思う。
とすれば、芥川龍之介も仏教の救いに違和感を感じていたのだろうか。
現在、僕が書いている二つの長編は、神や仏と人間との対立を主眼においている。
もしかするとそれを書くきっかけの一つは、この作品のこの部分に言い知れぬ違和感を感じたからかもしれぬ。
救いとはなんだろう。救われるとはなんだろう。
少なくても僕の考える救いとは、こんなお釈迦様の姿ではない。