アマチュア作家の面白い小説ブログ

素人作家がどこまで面白い小説を書くことができるか

『蜘蛛の糸』

 お釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっとみていらっしゃいましたが、やがて犍陀多かんだたが血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうなお顔をなさりながら、またぶらぶらお歩きになり始めました。自分ばかり地獄から抜け出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、お釈迦様のお目から見ると、あさましく思し召されたのでございましょう。
 しかし極楽の蓮池の花は、少しもそんなことにはとんじゃくいたしません。その玉のような白い花は、お釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆらうてなを動かして、その真ん中にある金色のずいからは、なんとも言えないようなよいにおいが、絶間なくあたりへあふれております。極楽ももうひるに近くなったのでございましょう。

引用:『蜘蛛の糸』(著:芥川龍之介)

 

 これは、なんと言ったらよいのだろうか。
 ただの小説だといってしまえばそれまでなのだが、どうもこのお釈迦様には純粋に共感できないものがある。
 天上にいらっしゃる救い人たちは、こんな風に暇つぶしに蜘蛛の糸を垂らし、ああ、やっぱり沈んでいったか、あさましいものだ。ところでそろそろお昼時かななどと、そんなようなものなのだろうか。

 もしそうだとしたら、ずいぶんな話だと思う。
 芥川龍之介がどういう思いでこれを書いたのか分からないが、明らかにそういう思いを感じさせる文章だということは確かだと思う。
 とすれば、芥川龍之介も仏教の救いに違和感を感じていたのだろうか。

 現在、僕が書いている二つの長編は、神や仏と人間との対立を主眼においている。
 もしかするとそれを書くきっかけの一つは、この作品のこの部分に言い知れぬ違和感を感じたからかもしれぬ。
 救いとはなんだろう。救われるとはなんだろう。
 少なくても僕の考える救いとは、こんなお釈迦様の姿ではない。

 

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 ここから先は、頂戴したコメントとそれらに対する僕の一言です。

「愚かな者がその欲ゆえに過ちを犯し、地獄を見る一部始終を眺めることほど楽しい娯楽はありますまい。これはすなわち芸能人のスキャンダルをあげつらい、したり顔で正論を述べながら糾弾するワイドショーのごときです。例えば俳優東出昌大は妻の杏に三人もの子宝をもうけさせながら、駆け出し女優の唐田えりかと不倫をしておったと…何という不道徳、唐田と共に全くの人でなしの所業! しかしテレビは東出にコメントを求めた…一般視聴者の怒りをおさめられる上手い反省の言葉を果たして発することが出来るのか?…さながらこれは地獄を目前にした者への細い細い一縷の蜘蛛の糸であった。しかし彼は特にコメントを発せず、逃げるようにテレビ画面から去った。これで私たち良識ある一般視聴者はいっそう東出を叩くことが出来る。同情は無用! 杏が可哀想だと言えばあとはもう何の遠慮も要らないのだ。これはもはや芸能人の需要の一つなのだ。つまり、この現実の中においては実際、神も仏もお釈迦様も無いのである。不道徳な芸能人のスキャンダルが、嬉しいことに徳無き私たちを良識ある釈迦のごときにモノを言わせてくれるという娯楽を与えてくれるだけの話なのである。これこそが偽り無き現世なのだ」(Aさん)

 

「悪い事が起きると、「神も仏もない」と思います。聖書の神と、蜘蛛の糸のお釈迦様の植え付けられたイメージのせい。カンダタは人間の本性を象徴していますね」(Hさん)

 

「意外と全部は読んでなかった蜘蛛の糸。学生時代の教科書にあったから、大まかに知ってて読んでなかったんだっけ? なので、この部分は始めて読みました。このお釈迦様は……人間臭い感じがしますねえ……糸が切れた原因と結果を見て、もっと嘆かれたのかと思ってましたよ」(Bさん)

 

「満たされた者は残酷である―――とは誰の言葉だったか。ありとあらゆる苦衷から解放され、これからも絶対苦しみが訪れない、となれば誰しも他人など路傍の石でしょう。様々な作品で良く貴族や武士を悪辣に描くのは、まさに彼らが虐げる者達より満たされているからでしょう(其処にもまた色々でしょうが)。自分は地獄と天国の境など無い、と思います。実際地獄で一番辛いのは、次から次と送られてくる罪人達を責める獄卒でしょうし。それを考えた時、実は獄卒とは仮の姿、その正体は極楽から暇潰しにやって来た人々だったりして、なんてことも妄想した時期も有ります。とかく見下ろす人々は残酷です―――かの悪名高き『監獄実験』でも証明されるように、自らの正義を信じた者ほど残酷に、そして勤勉になるのが実に恐ろしい。そして最も恐ろしいのは、お釈迦様だろうとYHVHだろうと唯一神だろうと、慈悲の対象として作り上げたそれらに他人を虐げる事を許した人間ではないでしょうか……」(Gさん)

 

「誰もが一度は考えたコトですねw 地獄の底から抜け出せるのに下からあんなに昇ってきたらお釈迦さまでも「降りろ!」って言うだろw と。仏教の教義では喜びの世界である『天界』すらも六道輪廻の一つ、【地獄】となんら変わりないと云われていますからね。『快楽が無いと幸福を感じられない』のは、【業(カルマ)】であり【欲望には終わりが無いから】だそうです」(Sさん)

 

 芥川龍之介。比較的短編が多いが、短い中に面白さを凝縮させる力量はずば抜けていると思う。書き手は名作を読むべきだと言ったが、特にも短編をメインに書いている書き手は、芥川龍之介を読むことを特にもお勧めする。
 短編でも、十分に深いテーマを込めることができることが分かる。
 この作品にも見事にテーマが込められている。
 芥川は明らかに、この仏に対して、何某かの思いを抱いていると思う。というか、何某かの思いを読者に問いかけている。
 それを読んだ僕たちは、それをどう解くか。
 それは人それぞれ。
 芥川はその答えを出していない。
 ただ、考えてくれと問いだけをポンと投げ捨てている。

 これもまた、書き手の声を作品に込める一つの手法だと思う。
 敢えて答えを用意しない。
 後は読む人が考えればいい。
 意外とそういう作品の方が読み終わった後に、深い余韻に浸れるものだ。

 そう言う意味では、書き手は読み手に対して、親切すぎてはいけないのではないかと思う。
 何から何まで解説してあげて、理由を述べて、謎を答えを用意する。
 それじゃ、読者は考える必要がない。想像する楽しみがない。思索する深みがない。

 なんでもかんでもキャラの心中を書くのではなくて、この作品のように「――悲しそうなお顔をなさりながら、またぶらぶらお歩きになり始めました」とだけ書かれた方が、仏は何を思っているんだろうとそこに新たな謎が生まれる。

 小説投稿サイトの作品を読んでいて思うのは、こういう技法で書いている人が圧倒的に少ない。
 それは、やっぱり名作というものに触れ、そしてそこから学びとっていないからじゃないかと思う。確かに、知っていれば書けるというものではない。だが、知らなければそういう書き方はできない。僕はそう思う。

 

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