僕は物凄く涙もろいです。
感動すると、すぐに目頭が熱くなってしまいます。
一度泣いた映画は、何度見ても同じ場面で涙が溢れそうになります。
そんな僕は、自分の書いた物語でも泣いてしまうのです。
その場面を読み返すと、自分が書いたはずなのに涙が出てくるのです。
そういう場面は、実は書いてる最中から目頭が熱くなって、涙を流しながらが書いていることが多々あるのです。
今執筆中の長編があるんですが、今回も書いていたら思わず涙が出てしまい、ティッシュで目頭を拭う羽目になってしまいました。
なにやってんだと笑われそうですが、実は僕にはどうしても譲れない一つの信念があるんです。
そんなことを旧エッセイに書いたので、ご紹介します。
自分の書いた作品はどれも愛着があるのですが、その中でも一番気に入っているのが、「42.195キロ」という作品です。
数日で書いたので、推敲も何もあったもんじゃないですが、まさに走りながら書いたって感じで、思いついたことをそのまま書いていきました。
その中で、諦めかけた主人公が親父さんと会うシーンがあるのですが、恥ずかしながらボロボロ涙を流して書いてました。
今でもそこの部分を読むと目が熱くなります。
だから応援していただいた方々のコメントで、感動しましたと言ってもらったときは、物凄いうれしかったです。
自分が感動しないものに、人が感動するわけない。
それは、僕が書くことにおいて、とても大事にしている信念です。
今でも、最後のところの思いは何一つ変わっていません。
僕は人間ドラマが好きです。
それは、たった一言でいえば感動するからです。
僕は感動するものを読みたいのです。
心が震えるような物語を読みたいのです。
だからそういう物語を自分でも書いてみたいと思っているのです。
自分が泣いたから読んだ人もきっと泣くだろうとは思いませんが、書いていて思わず涙が出そうになるところは、読んだ人も感動してくれるんじゃないかなと思ったりします。
他の方がどういう風に書いているか知りませんが、もし僕が涙を流したとしたら、絶対に、その作者はそこの箇所を熱い気持ちをもって書いたんだろうと確信しています。
そんなのは、お前の思い込みさ。小説はもっと客観的な視点で、冷静な筆致で書くものだよ。そんな風にいう人もいるかもしれません。
でも、僕はそういう冷めた人の書いた文書で涙することはないと思うし、ないと信じたい。人を泣かせるくらいの文書を書く人は、やっぱり熱い魂を持っていると信じたいし、そうじゃなかったら、僕らは単に仮面をつけた冷めた作者の手の上で踊らさせられている間抜けじゃないですか。
それではあまりにも人生が寂しいし、僕は、人間がそんな間抜けだとは絶対に思えないのです。
僕の創作活動がどんなところに落ち着くのか、それは分かりません。
でも、もし小説を書くことをやめる時が来たとしても、僕は小説を書いてよかったと思っています。
少なくても、自分が涙するような作品を書くことができました。自分の魂が震えるような作品を残すことができました。
だから、僕は自分が死ぬときには、自分の書いたものは自費出版でいいから本にして、自分の娘に渡したいと思います。そして、そのうち一冊は棺にでも入れてもらって、僕の体と一緒に焼いてもらおうかなと思っています。
そしたら、死んでも暇つぶしできそうですし、あの世でもっと推敲して、いい文章を考えられますからね。