長編をどこで終わらせるかということは、いろいろ議論があるだろう。
ちゃんと終わりを見据えているのであれば何も問題ないが、マンネリになってしまうことも少なくない。
たとえば、北斗の拳という漫画がある。
あくまでも僕個人の意見だが、あれはやっぱりラオウの死で終わった方が良かったのではないかと思う。
カイオウ編がだめだと言うのではない。ただ、ラオウの死までがあまりに完璧すぎて、そこで終わればまさに伝説となっただろうなと思うのだ。
だがそんなことを思いつつ、カイオウ編が始まったとき、まだ続くんだと喜んだ記憶も自分の中には確かにあったのだ。
つまり僕の言っていることは、全部終わったあとにあそこで終わってれば最高だったのにといういわゆる結果論にすぎない。
カイオウ編が僕にとって凄いと感じられたら、こんなことを思いもしなかっただろう。
ただそうは言っても、やっぱりカイオウ編は新しい物語であり、おそらく作者は当初はあそこまで想定して書いてはいなかったんだろうとも思うのだ。もしかするとあの頃の圧倒的な人気の中で、やめるにやめられなかったんじゃないか、そのために物語を追加したんじゃないかとさえ勘繰ってしまうのだ。
だが実際、長編というのは難しいと思う。
これは以前にも書いたが、長編というのは必要があるから長いのであって、ただだらだら話を続けるのが長編ではないと思う。
意外と新人賞の講評を見るとこんなのがある。
「序盤はいいが、後半の盛り上がりに欠ける」
「結局、何を伝えたいのか分からない」
「全体の構成力不足」
そんなことを読むと、書きかけの長編を3つも抱えている僕としても考えざるをえない、それぞれの物語の終わりの風景を。
それをしっかり見据えていないとまさに上に言われたようなことを言われてしまうだろう。
一応、僕の中には、その風景はあることはある。
だから今の状況は単にそこまでたどり着いてないだけだと言い訳できる。
でも、それじゃそこに至る道筋はちゃんとあるのかと言われると苦しい。そこまで完璧には考えてないし、そもそも、そういう書き方ができない。
書きながら、それがまた新しいストーリーへとつながっていくというのが、僕の書き方なので、まず書いてみないと次のストーリーを考えられない。
確かにプロットのようなものはあるが、それはプロットというより物語の謎をどう明らかにしていくかという種明かしの順序みたいなものだ。
それも大事には違いないが、それはただの種明かしであって、人間のドラマではない。物語に人間がいる以上、そこにいる人間たちの心が縦糸のようにつながっていなければならない。
それを過不足なく書くことができているか。
途中で失速していないか。逆に性急に書き急いではいないか。
それは長編を書いている人の共通の悩みじゃないかと思う。
つくづく物語を作り上げることは難しい。
気力と情熱を一定に保ちながら、物語にディテールを与え、キャラに命を吹き込む。謎をつくり、仕掛けをつくる。長すぎず、短すぎず、読者が満足できるものに仕上げていかないといけない。
そんなものを書ける人は、ほんの一握りの才能ある人だけなのかもしれない。
だが物語を書く以上、そこを目指して書きたいと思う。
自分なりに満足できる作品に仕上げてはいきたい。
それが長編を三つも書いている僕の率直な気持ちだ。