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【小説技法】ファンタジーとリアリティ その2

 ファンタジーには、なんというかゴールがある。
 魔王を倒すとか、姫を救い出すとか、まあ、そんな類のものだ。
 でもここが肝心なところだが、そのゴールが主人公にとって必然なものであるかどうかということが重要だ。
 例えば魔王を倒すとして、どうしてその主人公がそんな危険なことをしなければならないのか、その理由が弱いとそのファンタジーのリアリティが一気になくなる。

 ファンタジーの名作、ハリーポッターではその点は実にクリアだ。
 主人公のハリーは生まれながらにして特別な存在として扱われている。
 なぜか?
 名を言ってはいけないあの人が、唯一、殺せなかった赤子だからだ。
 それが物語を貫く謎となっている。
 ハリーと名を言ってはいけないあの人との間にある奇妙な共通点。
 名を言ってはいけないあの人を倒すためには、ハリーは死なねばならぬという予言。
 最後にその理由が明かされた時、そうだったのかと深く納得する。
 いずれにせよ、ハリーが名をいってはいけないあの人と戦わなければならないのは、ある意味当然でもある。
 ハリーの父と母は自らの命を犠牲にして、ハリーを守ったのだから。
 自分の親を殺した敵を倒す。これ以上の動機があろうか。

 

 別な名作でも考えてみよう。
 指輪物語。
 映画で見た方も多いことだろう。
 こちらの主人公は、なんと一番力もない、ホビット族のフロドだ。
 そのホビットのフロドを支える仲間たちが、魔王のサウロンを倒すという内容になっている。

 最初に言った「そのゴールが主人公にとって必然なものであるかどうか?」

 でも、その答えは途中で明確に提示されている。
 灰色の魔法使いガンダルフに頼まれて、エルフの国に「一つの指輪」を運んだフロド。
 そこで、エルフやドワーフ、人間、魔法使いが集まって、復活しつつあるサウロンとどう戦うか、この「一つの指輪」をどうするか話し合う。
 ところが、そこでそこに集まった者たちはいさかいを始める。
 誰もが自分のことだけを考えている。
 それこそ、サウロンの望んでいることだとフロドはきづく。
 だからフロドは手をあげる。
 僕が指輪を運ぶと、指輪を破壊することができる唯一の場所、それが作られた滅びの山、サウロンの本拠地へと。

 フロドは力の弱いホビットだ。
 魔法も使えないし、そんな大役が務まるとは思えない。
 だが、ホビットには、フロドには他の種族、他の人物にはない決定的な特徴がある。
 それは純真で善良だということだ。
 それこそが「一つの指輪」の誘惑に打ち勝てる唯一の力なのだ。
 だからこそ、その意気に感じたものたちがフロドを支えようと、立ち上がる。
 ここまで設定が決まれば、あとは思う存分、キャラたちを活躍させればいい。
 これぞ、まさにエンタメって感じだ。

 こんな風に、いいファンタジーには主人公の目的にしっかりした動機があり、そのことに必然性がある。

 こういう名作と比べるのも憚れるが、昨今の異世界転生ファンタジーと呼ばれるジャンル。
 ある日、なんでもない平凡な人間が、異世界に転生してしまい、いきなり英雄になって、魔王を倒す。
 どんな人間でもそういう冒険を、そういう役割を演じてみたいと思うのは分かる。
 そう言う意味で、異世界転生ファンタジーと呼ばれるジャンルが好きな人は、そこに平凡な自分を重ね合わせて、妄想を楽しむように読んでいるんだろう。
 それも分からないでもないから、そこまでそのジャンルを否定はしない。

 でも、僕はそういう物語に感動はしない。
 僕はフロドの勇気にこそ感動する。
 フロドは自ら手をあげたのだ。
 誰もが二の足を踏む、あのサウロンのいる地に行くことを自ら決めたのだ。
 だからこそ、フロドが途中で指輪の力に屈しそうになるときに、負けるなと応援したくなる。
 最後、滅びの山をふらふらになりながら登る姿を見て、声をからして頑張れと言いたくなる。
 そのとなりにずっと寄り添ってきたサムが、力尽きたフロドを背負って山を登る姿をみて涙が止まらなくなる。

 僕が読みたいのはそういうファンタジーだ。
 登場人物たちの叫びが聞こえるような、そんなリアルな物語だ。 

 

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