キャラづくりについては、前回までで十分かと思う。
テクニックとしては、いくつかないでもないが、結局それは小手先のことであり、前回言ったことが全てであり、そこがなければいくら技術でカバーしようとしてもどうにもならないと思うからだ。
いずれにせよ、魂が入らない限り、キャラは紙の中のアイコンに過ぎない。
そのキャラに魂を吹き込めるのはあなた自身なのだ。
あなたはそのキャラにどういう魂を吹き込めるのか。
それができたときに初めてそのキャラは自分の力で起き上がり、物語の中を動き出す。
それがキャラが立つということの本当の意味だと思う。
ということで、キャラの話はここまでにして、そろそろ次のステップに入っていきたい。つまりストーリーを組み立てて、書き始めるということだが、ストーリーについてはあまりこうだというのを僕自身もっていないので、思っていることだけをピックアップして書いてみる。
まず、一話目をどうするかということだ。
このことについては、以前も書いたことがあるが、とにかく一話目は非常に重要だ。
一話目の出来で読まれるか読まれないか決まるとさえいえる。
ファンタジーでは、その世界の設定から語り始めることも多い。
重厚なファンタジーではそうせざるを得ない気もするし、そうしないとその世界を十分に理解できない。ただそうはいっても、最初からだらだらと説明が続くのではやっぱり読者は飽きてしまう。
僕は物語には必ず謎を用意するといったが、僕は常にその謎に関する話を一発目に持ってくる。
この手法は、ホラーなんかだとよくある。
ホラーの名作「リング」は、まさに作品のテーマである貞子のビデオのシーンから始まり、貞子の恐怖を一発目で出してくる。殺人ミステリーなんかでは、最初に事件そのものの描写から始めることも多い。
別なパターンとして会話から入るという手法もあり、これもよく使われると思う。
会話から始まると、読者はすんなりと物語に入っていきやすい。
ただその場面はしっかりと考えないといけないとは思う。会話から始めるのであれば、そのキャラを印象付ける場面と内容にしないといけないと思う。
純文学では、その物語のテーマとなるものを最初にだすことも多い気がする。
夏目漱石の名作『吾輩は猫である』の最初の文は、そのまんま「吾輩は猫である。名前はまだ無い」である。
太宰治の名作『人間失格』では、実質的な本文である大庭葉蔵の手記の最初は、「恥の多い人生を送ってきました」となっている。
まあ、どんな風に書いてもいいのだが、物語の最初というのは読者をその世界に引き込まなければいけない。であれば、読者にいらぬストレスを与えることだけはやめた方がいい。
いらぬストレスとは、いちいち説明しないといけないことを最初から出すことである。
その一つは名前である。
名前ははっきり言って、その世界に入るか入らないか決めかねている読者にとって、どうでもいい要素だと思う。
例えば、上の『人間失格』では、葉蔵の名前が出てくるのは6千字以上書いたあとに、父から言われた「葉蔵は?」という言葉でようやく知れる。
出だしから、僕はAで、友達がBで、母がCで、父がDなんて言われても思いっきりストレスがたまる。
ストレスと言えば、すんなり入り込める文章には特徴があって、それは声に出していて、引っかからないということだ。
読んでいて思うのだが、すんなり入っていけない人の文章は、たいてい引っかかる。
いちいち読み返さないと意味がよく分からない。
そういう時、この人、これ書いたはいいけど、声に出して読んでみてるのかなと思う。実際に声に出さなくてもいいが、読者の視点で読み返ししているのかなと思う。
読書の大事さは、こういうところに顕著に出てくる。
読書していない人の文章は、自分勝手で読み手のことを考えていない。
だからこそ、もっといい本を読んだ方がいいよと思うのである。
名作を読んでいれば、どういう文章がいい文章か自然に分かってくる。
めくらめっぽう本を読むんじゃなくて、名作と呼ばれる作品をしっかり読むべきだと僕は思う。