「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」
世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)
引用:『人間失格』(著:太宰治)
太宰治の代表作「人間失格」のワンシーン。
太宰治は人間の実相をえぐり取り、事も無げにぽいっと読者の前に晒すのがとても上手な作家だと思う。
この場面でも葉蔵に忠告する堀木の、世間がゆるさないという言葉の本質を見事に言い表している。
人はよく、世間がとか、普通はとか、常識的にとか言う。
だがそこには何か自分が持つ不満や異論をあたかも人間全体の総意であるかのように見せかける欺瞞が潜んでいる。あるいは自分の方がマジョリティであり、お前などよりはるかに優越しているんだとというような響きを感じることがままある。
やめろというなら、はっきりそう言えばいい。
それを世間などという言葉をことさら持ち出して、自分は上手くその世間という言葉の蓑に隠れて人を批判する。
それも人間の持つ醜悪な部分なんだろう。
その醜悪な人間の一人であることを拒否したのが、葉蔵であり太宰なんだろう。
人間失格。
いったい、どちらが人間として失格だったのだろう。