或ひと曰く、「天道に親無し。常に善人に与す」と。
伯夷・叔斉の若きは善人と謂いふべき者か非か。
仁を積み行ひの絜きこと此くの如くにして餓死せり。
且つ七十子の徒、仲尼は独り顔回を薦めて学を好むと為す。
然るに顔回や屡空しく、糟糠すら厭かずして、卒に蚤夭せり。
天の善人に報施すること、其れ何如ぞや。
盜蹠は日に不辜を殺し、人の肉を肝にし、暴戻恣雎、党を聚ること数千人、天下に横行するも、竟に寿を以て終はる。
是れ何の徳に遵ふや。
此れその尤も大いに彰明較著なる者なり。
近世に至り、操行不軌、もっぱら忌諱を犯すも、終身逸楽富厚に、累世絶えず、或いは地を択びてこれを蹈み、時ありて然る後に言を出し、行くに径に由らず、公正に非ずんば憤を発せざるも、憤に遇ふが若き者は、数ふるに勝ふべからざるなり。余甚惑へり。
儻いは所謂天道是か、非か。
引用:『史記』(著:司馬遷)
義人が餓死し、人殺しが天寿を全うする。
悪行をなすものが一生裕福に暮らし、常に正しい道を歩かんとするものが思わぬ災難にあうことは数え切れない。
俗にいう天道というものは、はたして正しいのか、正しくないのか
この司馬遷の問いと同じ思いを持つものは、現代にもたくさんいるんじゃないだろうか。
かくいう僕も同じ問いを持つ。
天道といってもいいし、神はいるのかといってもいいし、そもそも神の道は正しいのかといってもいい。
そういう意味では、昨日のカラマーゾフのイワンの問いと似たような問いであろう。
善は報われ、悪は罰せられる。
正義が実現し、不正は放逐される。
そう思いたい。
だが現実がそうでないことは、誰もが知っている。
でもだとしたら、人生に意味なんてあるんだろうか。
たまたまこの世に生まれ、死ぬまでの間、暇つぶしのように生きるだけなんだろうか。
そうは思いたくない。
絶対にそうは思いたくない。
だからこそ、生きる意味を知りたいと思う。
それこそが、僕が書く作品の根底に連なるテーゼである。