そんな、ある日のこと、田中さんが家にやってきました。田中さんは家の中をぐるっと眺め渡すと、「ここに住んでみていかがですか」と不安な様子で私に尋ねてきました。
「大変に良いところで毎日楽しく過ごしております」
私が笑顔で答えると、田中さんは真底からほっとした様子でしたが、
「なるほどなるほど。いや、移住したいという方はたくさんいるのですが、実際に住んでみると自分の想像とは違ったと言って、すぐに出ていってしまう方が案外いるのですよ」となんだか寂しそうに言いました。
「そんなものですか」
「そんなものなんですよ」
「いったい、何が気に食わないのでしょうね」私は不思議でしょうがないとでもいうように顔をかしげました。
「そりゃ、田舎で生活するというのはいろいろとですね……大変なんですよ」
田中さんは言葉を濁すようにそう言うと、そそくさと帰って行ったのでした。
その日の夜のことでした。囲炉裏の脇に寝そべりながら、うとうととまどろみかけていると、どんどんと扉を叩く音がしました。私はギクッとして跳ね起きました。体を固くして外の様子をじっと伺っていると、またもやどんどんと音がします。私は勇気を振り絞って、「どなたですか、ちょっと待ってください」と答えると、急いで土間に降りて、戸のつっかえを外し恐る恐る扉を開けました。
その瞬間、私は仰天してしまいました。なんとそこには私の背丈よりも大きな熊が二本足で立っていたのです。私は目をまん丸に開いたまま、一歩も動けず棒のようにその場に突っ立ってしまいました。すると、熊が私を睨みつけながらこう言ったのです。
「この家の主人は客を外に立たせておくのか」
「――ど、ど、どうぞ中にお入りください」私は何が何だか頭がこんがらがってしまいましたが、やっとのことでそう言いました。
しかし、熊は私の言葉など気にするそぶりもみせず、私をぐいっと押しのけ、よっこらしょと頭をかがめて扉をくぐり、まるで我が家のように囲炉裏の前にどしっと腰をおろしたのでした。
私はもう唖然としてただただ熊の様子を眺めていましたが、熊はこちらを振り向くと、憮然とした態度でこっちに座れと手招きしました。
私はおそるおそる熊の前に正座しましたが顔を上げることもできません。少し上目遣いで前を見上げると、胡坐を組んで座っている熊の足が見えました。もう少し、目を上げると、両手を組んでいる熊の手が見えました。さらに顔を上げると、熊が鋭いまなじりでじっとこちらを睨んでいました。私はびくっとして、すぐに目を伏せて小さくなって固まってしまいました。そんな私をじろじろ見ながら、おもむろに熊が話し始めました。
「一体全体、お前は誰の許可を得てここに住んでおるのだ。ここは人間が住むようなところではないのだ。特にお前のような都会の匂いをプンプンさせた甘っちょろい人間に住まわれると大変に迷惑なのだ。一体、お前はなんでまたこんな辺鄙なところに住みたいと思ったのだ」
いきなり熊に怒られてひどくしょげ返りましたが、熊を上目づかいに見ながら、
「……あ、あの、わ、私は昔から田舎の生活に憧れておりまして……何よりも、宮沢賢治の童話が大好きで……それで、いつか、そんな世界に住んでみたいと思っていまして……」とへどもどしながらそんなことをなんとか伝えました。
「それそれ、田舎に憧れているとか自然が好きだとか、お前らみたいなのはそんなことをいつも言うが、一体全体、自然というものがどういうものか本当に分かっているのか。つい最近のことだが、わしのねぐらに挨拶もなく近寄ってきた男がいたから、後ろからぶんなぐってやったが、そいつはギャーと叫んで這う這うの体で逃げていったわ。そのあとがまた大変で、消防やら警察やらが熊退治だと大変な騒ぎで、しばらくわしを探しておったが――まあ、そんなやつらに捕まるわしではないがな」そう言って、熊は、がっはっはと笑ったかと思うと、すかさず私を睨みつけて、「自然というものはそういうものなのだ。食うか食われるか、隙を見せたが最後、一寸先には死が待っている恐ろしいところなのだ。お前の畑など森の動物どもにとってはごちそうみたいなもんだ。今はまだお前がどんな人間か測りかねているから誰もちょっかいを出さないが、近いうちに食い荒らされるのがおちなのだ」
私は一言も言い返せずに、頭を下げて熊の言うことを黙って聞いておりました。
「とにかく、こんなところにお前みたいな人間に住まわれては大変迷惑だから早速出ていくことだ。分かったか」熊は立ち上がり、私に一瞥をくれると乱暴に扉を開けて出て行ってしまいました。