翌日、楓は学校から帰ると荷物を放り投げ、すぐに清龍寺に走っていった。三蔵はどこやらへ出かけたらしく不在だったが、あの巨大なスサノオと名乗る白い犬が庭の隅で昼寝をしていた。楓は恐る恐るスサノオの方に近づいていった。
「……スサノオさん」楓は蚊の鳴くような声でスサノオに声を掛けたが、スサノオはぴくりともしない。
「……ねえ、スサノオさん」今度は少し大きな声で声を掛けた。スサノオは耳をぴくりと動かしたが、相変らず目を瞑ったままだった。
「ねえねえ、起きてんでしょう。返事ぐらいしたっていいじゃないの」楓はスサノオの背中をゆすった。
「――相変わらず、うるさい奴だな」
スサノオは、はああっと大きなあくびをすると、じろっと楓を見つめた。楓はカチンと来たがぐっとこらえて、スサノオの前にちょこんとかがみこんだ。
「――なんだ、言いたいことがあるなら、さっさと言え」
楓はしめたと身を乗り出してきた。
「昨日のことなんだけどさ、三蔵には金剛力が備わっているとかなんとかっていってたけど、それって何なの?」
スサノオは楓をじっと見つめていたが、まあいいかと小さくつぶやくと低い声でしゃべり始めた。
「この世界は仏がその身に備えるいくつかの力によって造られている。その力は、それぞれが大変な力をもつものであり、人であっても様々な修練や体験を重ねることで己のものとすることができる。金剛力とはその中の一つであり、あらゆる悪念を断ち切り、悪業を縛り上げ、煩悩を焼き尽くす――いわば、仏法を守護する破邪の力」
「……そんな凄い力を三蔵が持っているというの?」
「まだ、完全に己のものとしているわけではないがな」
「どういうこと?」
「金剛力を完全に備えたものであれば、腕をあんな風に噛みつかれやしない。悪鬼や妖どもなど、近づくことさえ敵わぬだろう。つまり、やつもまだまだ修行の身ということだ――まあ、今でも相当な力を秘めてはいるがな」
「――そうなんだ、そんな凄いやつなんだ」楓はなんだか、自分が褒められたようでうれしくなった。
スサノオは目の前でにやにや笑っている楓を見ると呆れたように言った。
「おい、お前は三蔵が何か特別な人間だと勘違いしているようだが、あいつもただの人間だ。お前と何ら変わることはない。ただあいつがお前と違うのは、あいつが身に備わった種を伸ばそうと日々鍛錬を怠ず、努力を重ねているということ、ただそれだけのことだ」
「種?」 楓は首をかしげた。
「そうだ。仏が持つ力の種は、誰もが生まれた時からその身に持っている。だがほとんどのものはその種が身にあることを知らず、ただ漫然と生を過ごし、死んでいくだけなのだ。つまりはお前であっても仏の力を使いこなすこともできるのだ」
「私にも……」
「ああ、ただその力を使いこなすには相当な修練を積み重ねる必要がある。三蔵とて、生まれた時からその力を自在に使いこなせたわけではない。たゆまむ修練により、その力を少しづつ蓄えていったのだ」
その言葉は楓にとって新鮮な響きがあった。自分の中にもあんな凄い力がある。その力を使えば三蔵の役に立つことができるかもしれない。楓は少しの間、物思いに耽ったが、そのことは後でじっくり考えることにして、スサノオの顔を見つめ直した。
「ねえ、そういう力って他にもあるんでしょう。あとはどんな力があるの?」
「最も基本的な力はこの自然界に働く力だ。この力は前たちの血肉の中に染みこんでいるし、お前たちが意図しているかどうかは別として、既にその力を使いこなしてもいるのだ」
「自然界に働く力?」
「何かを押せば物は動くし、落とせば物は落ちる。まあそんな力のことだ」
「じゃ、重力とかも、仏の力のうちの一つだったんだ」楓はいつぞや、三蔵がアインシュタインの話を持ち出したことを思い出した。
「なるほどね――他には?」
スサノオはもううんざりとばかりにため息をついた。
「それじゃ、あと一つだけお前が理解できる力を教えてやる」
「うんうん。で、どんなの」楓は目を光らせてさらに身を乗り出した。
「それは、精神力というものだ」
「精神力――それって、心とか精神のこと」
「そうだ。精神とは言ってみれば眼、耳、鼻、舌、身の五識を超えた意識のことだ。その意識を働かせることで様々な力を生み出すことができる」
「意識?」楓の不審そうな顔を見て、スサノオは助け舟を出すようにいった。
「意識を強くもつことによって、普段以上の力を発揮することができる。意識が強く働けば、その力は肉体を超えて様々な現象を引き起こす――そういうことはよくあるだろう」
「ああ、わかった! 超能力みたいなものね」楓が納得したとばかりに手を打った。
「まあ、そんなようなものだ。さあ授業はおしまいだ。俺は寝る」そう言うと、スサノオは面倒くさそうに目を瞑った。
「ええ、もう終わり! まだもっとあるんでしょう。ねえねえ、教えてよ」
楓はスサノオをゆすったが、
「その話を今のお前に話したところで理解できもしない。その時がきたら教えてやる」と言うや、スサノオはそのまま目を閉じて寝てしまった。
「まったくもう、ここにいる奴はどいつもこいつも自分勝手なんだから!」
楓はスサノオを睨みつけるようにして立ち上がった。ちょうど夕日が落ちかかり、綺麗な夕焼けが西の空に広がっていた。
「そろそろ、帰らなくちゃ。また、変なのが来たら大変だ」楓は空を見てそう言うと、さらに小さくつぶやいた。「――仏の力か」