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【聖書世界をモチーフにしたダークファンタジー小説】『リバイアサン』(五十一) 勇者の死

 イロンシッドは冷静だった。右腕は切り落とされたが、イロンシッドは意に介する風もなかった。断面から血がだらだらと溢れ出ていたが、それはかえって血がのぼったイロンシッドの頭を冷ましているようにさえ感じさせた。

 これだけの血が流れているのだから、普通であればイロンシッドの方が焦るはずなのに、焦っているのはリュウの方だった。どうにも飛び込む隙がなかった。下手に飛び込んだら、あの長大な剣で真っ二つにされそうな気がした。

 少しづつ足を動かしながら、イロンシッドの隙を伺っていたリュウだったが、ふっとイロンシッドが動いた。そう思った瞬間、既にイロンシッドは目の前に迫っていた。

 巨大な剣がリュウの眼前に振り下ろされた。リュウはそれを間髪で交わしたが、イロンシッドの剣はそこで止まらなかった。V字を描くように今度は跳ね上がった。物凄い圧が耳元をかすめた。リュウはなんとかそれもかわし、再び、間を取るように後ろに飛んだ。

 次の攻撃に備えて剣を構えたリュウだったが耳が妙に熱かった。じんとした鈍い痛みを感じた。リュウの耳はもはや原形を留めていなかった。耳が裂けて、血がだらだらと噴き出していた。だがリュウもそんなことには構っていられなかった。

 なんとか反撃の糸口を探さなければならなかったが、左手はまだ痺れたままで、まだ力が戻っていなかった。もし再び、やつの剣を受け止めることになれば、到底持ちこたえることはできないだろう。受け身に回っては負けると感じた。覚悟を決めたリュウは、再びイロンシッドめがけて突きを放った。まさに雷光のような突きだった。だが、イロンシッドはリュウの動きを再びかわした。リュウは、イロンシッドの反撃を予想し、すぐにそのまま飛びぬけたが、なぜかイロンシッドの剣が振り下ろされることはなかった。

 リュウは再びイロンシッドと対峙し、相手の様子をじっと伺った。イロンシッドは相変わらず、左手に剣を持ち傲然と立ちはだかっていた。

 リュウは、なぜ今、イロンシッドがリュウを反撃しなかったか考えていた。リュウはイロンシッドに突きを放った。だがイロンシッドは体を左に逸らして、その突きをかわした。普通であれば、隙ができたリュウの背中に強力な一撃を食わらせることができるはずだった。だが、その攻撃はなかった……なぜしなかった……いや、できなかったのか……

 リュウははっとした。そして、もう一度イロンシッドの顔を見た。イロンシッドの顔は真っ赤だった。右頬の傷は深く、顎から目のあたりにまでかかっていた。

 リュウは自身の推測を確かめるべく、再びイロンシッドの右側を狙って突いた。この攻撃も、イロンシッドは剣の右に回り込んでうまくかわしたが、やはり、イロンシッドからの反撃はなかった。イロンシッドと対したリュウは確信した。イロンシッドの右目は見えていないと。

 リュウは時計周りに回り始めた。イロンシッドはそれを追うように体を動かしたが、その動きはぎこちなかった。イロンシッドの顔に初めて戸惑いの色が生じていた。

 リュウは足を速めた。イロンシッドはリュウの姿を捉えようとして、体を大きく動かした。その瞬間をリュウは見逃さなかった。リュウが再び突きを放った。だが、その突きの狙いは喉ではなく、右の肩であった。イロンシッドはリュウが右の方を突いてきたのは分かったが、その切っ先を捉えきれなかった。

 その突きの速さはまさに神速であった。イロンシッドの肩に衝撃が走った。リュウが放った剣の切っ先は、イロンシッドの肩を見事に貫いた。イロンシッドの肩は完全に砕かれていた。

 イロンシッドは剣を落とすと、よろよろと両膝をついた。そして、目の前に立つリュウの顔を見上げるとにやりと笑った。

「……どうやら、俺の負けのようだな……イラルは二度も聖騎士の前に敗れ去ったということか……リュウと言ったな、さあ、俺の首を刎ねろ」

 リュウは改めてイロンシッドを見た。右目はすでに失明していた。最初にリュウが突いて顔面を断ち切った傷は目にまで及んでいたのだった。そしてその顔は鮮血で真っ赤に染まっていたが、合間に見えるその肌は始めに見た時とは別人と思えるほど白かった。最初の一撃による大量の出血が、イロンシッドを既に致死状態にまで追いつめていたことをリュウはようやく悟った。

 リュウはイロンシッドに向かって低い声で言った。

「……あんたがまともだったら、俺はあんたに負けていた」

 イロンシッドは、その言葉を聞いてしばらくリュウの顔を眺めていたが、感に堪えぬように一言だけつぶやいた。

「……リュウよ、その言葉だけで十分だ……さあ、皆が見ている……首を刎ねろ」

 そしてイロンシッドは頭を垂れて、首を晒した。だが、それを見下ろすリュウの手は動かなかった。

「何を躊躇している。お前は俺に勝った。勝ったものだけが生きられる。力があるものだけが生きられるのだ。それがこの世の真実だ。お前だって分かっていよう」

 分かってはいた。力が全て、力がある奴が一番強い。強い奴だけが、この世界で好きなように生きられる。それは、リュウの人生を支えていた信念のはずだった。だが、何かがリュウを躊躇させていた。今までだったら、人の命を奪うことなどなんとも思わなかった。ましてや目の前にいるのは、今の今まで生死を賭けて戦っていた敵だった。一歩間違えれば、リュウが死んでいた。勝てば生きる、負ければ死ぬ、最初からそうして戦ったはずだった。それでも、リュウの手は動かなかった。

「リュウ! 貴様、イラルの勇者イロンシッドに生き恥をかかせる気か! 情けなどいらん、早く首を断て!」

 イロンシッドの怒声が固まっていたリュウの体をようやく動かした。リュウは、ゆっくりと剣を振り上げた。イロンシッドはその気配を感じると、目を閉じた。

 イロンシッドは、これまでに何度も逆の立場で人の首を刎ねてきた。
 怖くはなかった。ただ、一瞬のことだ。一瞬ののちには何の苦しみもなく、あの世とやらへ行っている。本当にあの世とやらがあるのかどうか知らないが、そんなことはどうだっていい。もしそこに、こいつらのいう神が本当にいたしとたら、そいつに文句をぶちまけてやる。お前なんぞに頭を下げる気などない、俺は、俺の好きなように生きてきた。何にも後悔しちゃいないとな。それにしても、死ぬ間際ってのは随分長く感じるもんだな。リュウよ、お前は刃を振り下ろしたんだろ――それとも、まさかてめえ、またぞろ軟弱な気でも起こしたんじゃねえだろうな。

 あまりに遅い一撃に業を煮やしたイロンシッドはとうとう面を上げてリュウを怒鳴りつけた。

「リュウ! 貴様、そんなことで、聖騎士……」

 そこまで言って、イロンシッドの言葉が止まった。リュウは目の前で剣を振り上げて立っていたが、何か様子がおかしかった。目は虚ろで体がぶるぶると震えていた。そして急に意識を失ったようにゆっくりと後ろに倒れた。イロンシッドは何が起こったのか分からず、リュウを見たが、そのわけを瞬時に悟った。リュウの胸には黒く短い矢が心臓に食い込んでいた。それはイラルの暗殺者がよく使う短弓による毒矢だった。

その時、イラルの軍の中から、声が上がった。

「見ろ! イラルの英雄、イロンシッドが聖騎士を倒したぞ! イロンシッドの執念がやつらの神をひれ伏せさせたのだ! イラルは不滅だ! イラル万歳!」

 その声はタルタンの腹心、マルデュクだった。その声に呼応するように、マルデュクの近くにいた黒づくめの兵士がイラル万歳と声を張り上げた。最初、何が起こったよく分からなかった他の兵士たちもようやく事情を察知して、一斉にイラル万歳、イロンシッド万歳と叫びだした。イラルの二万の軍勢が歓喜の声をあげた。その声は天にまで届こうかというばかりだった。

 だがその声を打ち消すように、イロンシッドが味方の軍勢に向かって大音声を轟かせた。

「これは罠だ! 卑劣な罠だ! イラルのものたちよ、この男は俺と正々堂々と戦い、そして、この男が勝ったのだ! だが、俺は後悔などしていない。俺はイラルの戦士として、誇りをかけて戦った! その誇りを汚すものは誰であろうと許さぬ! タルタンは卑劣な手段をもって、勝者であるはずの男を暗殺したのだ!」

「黙れ! イロンシッド、貴様、このわしを侮辱するか! 構わぬ、イロンシッドも一緒に仕留めてしまえ! 弓兵、構えろ!」

 怒号するタルタンに恐れをなしたか、それとも既に示し合わせていたのか、マルデュクの合図のもと弓兵が前に出てきて、一斉に弓矢を放った。イロンシッドはそれを見ると、失われた右腕と砕かれた左腕を広げ、リュウを守るようにその前に立ちはだかった。

「俺は自分の好きなように生きる! それが、イラルの勇者、イロンシッドの生き様だ!」

 だがその叫びは唸り声をあげて迫りくる強弓の音にかき消された。イロンシッドの体に、百本を超える矢が突き刺さった。物凄い衝撃が襲ったが、イロンシッドはそれを踏み堪えた。だがすぐに第二波がやってきた。再び、百本を超える矢がイロンシッドの体に突き刺さった。イロンシッドは一歩二歩とよろめき、そして後ろに倒れた。

 痛みもなかった。ただ力が失われていくのを感じた。その時、頬に温かみを感じた。誰かの手が添えられているのだった。イロンシッドはうっすらと目を開けた。それはレインハルトだった。イロンシッドは必死に喉から声を絞り出した。

「……レインハルト……イラルにも……ほ、誇りがある」

 その言葉にレインハルトは頷いた。

「イラルの勇者イロンシッドよ、お前の名とお前のその誇り高き心は、私とリュウの心にいつまでも残り続けるだろう――安らかに眠れ、神もお前のその誇り高き心も嘉されるであろう」

「……か、神が……お、俺なんかも、ほ、ほめてくれるというのか」

 レインハルトはにっこりと笑った。

「お前は力の限り生きてきた。そして、今、最後の瞬間まで戦い続けた――イロンシッドよ、お前も立派な聖騎士士なのだ」

「……お、俺も、聖騎士か……」

 イロンシッドはそう言うと、うっすらと笑い、静かに目を閉じた。こうしてイラルの勇者イロンシッドは、その名に恥じぬ生を終え、神のもとに旅立っていった。

 

勇者の死

 

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