アマチュア作家の成り上がり執筆録

素人作家がどこまで高みに昇ることができるのか

【小説の書き方について考える】 風景描写

 小説を書く上で風景描写は大事な要素ですが、実は僕は風景描写が大の苦手です。
 そんなことも旧エッセイに書いたので、ちょっと拝借します。

 

 自分でいうのもなんですが、僕は会話文は結構、サクサク書けます。反面、物凄い苦労するのが風景描写です。

 全く詩的センスがなく、風景描写を二、三行書くだけで、一時間以上かかることがあります。

 なので時折トレーニングのつもりで、目の前の風景を口に出して表現することがありますが、さっぱり上手になりません。
 ほんと、詩や俳句を上手に書ける方がうらやましいです。
 
 そんなふうなので、最近では風景描写は諦めて、ドストエフスキー流に心理描写メインで書こうかななどと不埒なことを考えてます。

 

 今でも風景描写を美しくかける人は凄いなと思いますし、憧れます。
 例えば、ノーベル賞作家の川端康成の代表作『雪国』の出だしなんか凄いですよね、なんか詩的な美さえ感じてしまいます。到底凡人には及びもつかない境地です。
 また、僕が大好きな宮沢賢治の作品はどれも、その美しい自然が目に見えるように迫ってきますし、『銀河鉄道の夜』などは、銀河を巡る旅が静かにそして、美しく描かれています。

 しかしながら、なんでもかんでも風景描写を入れるべきかというとそういうわけでもないと思うのです。
 これも、旧エッセイに持論を書いたのでご紹介します。

 

 ものを書く人には、いろいろなタイプがある。
 例えば、中国の南北朝時代の四六駢儷体の漢詩のように流麗な修辞に彩られた文章が好きだという人もいるだろう。
 逆に、ヘミングウェイのようにシンプルさを追求した文章が好きという人もいるだろう。
 これは人の好みもあるが、作品のタイプによっても相応しい文章のタイプがあるように思う。
 色彩にあふれた世界を書こうとするなら、やはり修辞をうまく使う必要があると思う。
 逆にノンフィクションや歴史小説などなら、あまり過度な修辞は嫌われるかもしれない。
 心理描写をメインとする物語ならば、外の世界を修辞で飾るよりも、読む人の心をえぐるような心の喩えは必要かもしれない。

 よく陳腐な形容詞を使うなという人もいるが、僕は別に拘りはない。それは全て、作品全体とのバランスの中で考えることだと思う。
 シンプルな形容詞で十分な場合もあるし、形容詞をあえて省くことで強調する方法だってある。

 正直な話をすると、実は僕はあまり外の世界を具体的にイメージする力がない。
 人の顔もすぐに忘れるし、神経衰弱などは異常に弱い。
 色などは、ぱっと見せられたら、たぶん、数秒後には忘れてしまうだろうと思う。刑事ドラマで、ひき逃げした車の色はなどと聞かれることがあるが、たぶん、まったく思い出せないと思う。

 その代わり、内面のことを突き詰めるのは得意だ。
 何が問題で何が根本なのかとか、そういうことになると俄然、集中力が増す。
 そういうタイプなので、物語を書く時も物語の本質でないところは手を抜くことが多い。逆に、自分が大事だと思うことは、修辞も惜しげなく使いながら書く。

 物語に広がりを持たせるためには、もう少し肉付けをすべきとは思っているのだが、どちらかというと無駄なものを削ぎ落す方に神経がいってしまう。

 でも、それには僕なりのわけがある。 
 いい映画は、全てのシーンに意味があるそうだ。
 だから、自分の作品においても無意味な描写を取ってしまいたくなるのだ。

 でもやっぱり、そればっかりしてると、尖ったナイフのように読んでいて痛々しい文章になってしまう。


 何かで読んだ文章に、「異世界ものに余計な風景描写はいらない。そこはよくある中世ヨーロッパ風のまちだったとでも書いとけばいい」みたいなのがありましたが、あんまりかと思いましたが、意外と異世界ものはそんな感じなのかもと思います(読まないので知らないのですが……)。
 
 つまり、風景描写を必要とするかどうかは、読んでもらいたい対象によっても変わるのかもしれません。
 僕はさすがにそこまでラジカルな層を対象にしたいとは思わないので、やっぱり作法として風景描写は生かしたいと思っています。
 ですが、僕の場合、風景描写は全て、メタファー(隠喩)として機能させることが多いです。
 僕の作品の数少ない風景描写の中にこういうものがあります。

 

 麗らかな日が差し込む秋天の昼下がり、開け放たれた庭先から、さあっと爽やかな風が中に吹き込んできた。その風は男泣きにむせぶ父親を優しく包み込むようだった。浩平は、庭先からはるか彼方に聳える雄大な富士の姿を眺めた。どこかで鳶が鳴いていた。


 これは、殺害された男の父親が主人公である刑事に我が子を失った辛さ、悲しさを吐露したあとの描写です。
 実はこの作品では、東京の夏のあの異常な蒸し暑さ、満員電車の息苦しさ、風がふかない、あのべとべとした世界の中で頭がおかしくなってしまうような感覚を、かなり作品の序盤の方で強調してます。
 ですがこの場面では、初めて、秋の到来とともに爽やかな風を吹かせて、事件の移り変わりを暗示させてます。
 そして遥か彼方に聳える富士は、殺害された我が子が追い求めた理想そのものを暗示し、鳶を出したのは、この物語の重要なキーワードである鷲と同じタカ科の鳥である鳶をその子になぞらえ、今は亡き息子が天から父親を労るような感じを出したいと思ったからでした。

 ここは、もっと文章を厚くした方がいいと今でも思っているのですが、どうにも才能がなくて、なかなか良い表現が浮かんできません。

 まあ僕の話はおいといて、風景描写というのは読者の想像力を膨らませる効果があると思います。また一服の清涼剤のように物語のアクセントにもなります。やっぱりプロの作家と呼ばれる人たちは、うまく風景描写を使っているなと思います。

 反対にアマチュアの作品を読んでいて一番足りないのが、この部分だと思います。物書きになりたいと思うのなら、やっぱり風景描写を学んで積極的に作品に取り込んでいく必要があるのかなと最近つとに痛感する次第です。
 でも、どうやったら上手になるのか……ほんと、小説って難しいですよね。

 

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