レース当日、俺は五時に目を覚ますと、親父とおふくろを起こさないよう静かに家を出た。
玄関を出ると、朝日が東の空に浮かび、真っ青な空を美しく照らしていた。見慣れているはずの庭木も草も花もなんだか別なもののようにキラキラと煌めいて、地面に転がっている石ころですら宝石のように光り輝いていた。
俺は空を向いて大きく息を吸った。うまかった。空気ってこんなにうまいものだったかと思った。俺は自然と顔が綻んだ。天地が俺の挑戦を祝福しているように感じた。
会場には、すでにたくさんの人が集まっていた。俺は受け付けを済ませると、会場の端っこの方に小さなレジャーシートを敷いて腰を下ろした。受け付けのときにもらった袋を開けると大会パンフレットやらゼッケンやらがごちゃごちゃ入っていた。
パンフレットを見ると、男子フルマラソンに参加するのは、1,588人と書かれていた。女子を含めると、二千人近い選手が参加しているようだった。その二千近い選手たちは、どの選手も準備が整うと、待ちきれないとばかりに会場内にあるランニングコースめがけて走り出していった。
俺もシャツにゼッケンをピンで留めると、すかさず着込んだ。シューズを履いて、紐が緩まないようにしっかりと結ぶと気持ちが徐々に高鳴ってきた。なんだか知らないが、座ってなんていられなかった。俺はすぐに立ち上がるとみんなと同じように会場内のコースに向かって走り出していた。
本番前なので、体を温める程度にしようと思っていたけど、足が勝手に前に前に進んでいった。俺は会場内を走っているやつらをどんどんかわして走っていた。
足が軽かった。体も凄く軽くて、まるで背中に羽でもあるみたいだった。
俺は変われる気がした。これを走り切った時、俺はきっと変わることができると思った。そして、俺は走り切る自信があった。
スタートまで二十分を切った。会場内にアナウンスが響き、ランナーがぞろぞろとスタート地点に集まっていた。
俺は一度、自分の荷物を置いた場所に戻るとタオルで汗を拭った。既に汗をかいていたが、それはさらさらとして、なんとも心地よい汗だった。皮膚に浮かんだ汗はまるで朝露のように胸板を走り落ちた。
俺は最後に冷えたスポーツドリンクをごくりと口に含んだ。あまりの美味しさに、思わずごくごくと半分ほども一気に飲み干した。俺は満足して最後にタオルで顔を拭き、荷物を一つにまとめた。そして、自分の準備が全て整ったことを確認すると、大勢の集団がたむろするエリアに向かって歩き出した。
スタート地点は、既にたくさんのランナーでごったがえしていた。俺はその中に体を押し込んだが、みなそわそわと足踏みしたり、深呼吸したり、落ち着かない様子で時計を合わせたりしていた。至る所から足を叩く音、足踏みする音が聞こえてきた。そこに身を置いているだけで、いいようのない高揚感に襲われた。闘志が体中にみなぎっていた。スタートが待ち遠しかった。早くしろ、早くしろ、俺の筋肉が待ちきれないと叫んでいた。
スターターがスタートラインに設けられた壇上に立つと、いよいよカウントダウンが始まった。
一分前……三十秒前……二十秒前……十秒前、九、八、七、六、五、四、三、二、一、そして、スターターがスタートを告げるピストルを撃つとそれに呼応するように号砲が空高く鳴り響いた。