ランナーが一斉に走り始めた。
二千人を超えるランナーが参加する大会ともなると、スタートラインを超えるのにもかなり時間がかかる。しばらくは動くことすらままならない。俺の周りもほとんど進むことができず、のろのろと歩きながら少しづつ進んでいった。
俺は早く走り出したくて、うずうずしていた。徐々にペースが上がり、周囲にスペースができ始めると俺は群衆を縫うように走り始めた。
初めてってのはついつい勢いが余ってしまうものだ。
でも、そりゃそうに決まってる。ずっと待ち焦がれていた舞台に立てたんだ。ようやく自分の力を発揮できる時が来たんだ。俺の周りにいるやつら、こいつらがどんなに走ってきたか知らないが、俺だって、結構練習してきた。別にトップを目指しているわけじゃないが、もしかしたら、表彰台だってありえるかもしれない。そんなの、やってみなきゃ分からないじゃないか。そう、やってみなきゃなんにも始まらない。
俺は一気にペースを上げた。
一人抜き、二人抜き、三人、四人と俺はどんどんと抜いていった。
ビールの飲みすぎだろって思うくらい腹の出た中年、走りきる前にぶっ倒れるんじゃないかとこっちが心配になるよぼよぼのじいさん、コスチュームを着込んだ仮装ランナー、こんなやつらにつきあってる暇なんてない。俺は、次々にそいつらを抜き去り、どんどん先に進んでいった。
前を塞いでのろのろと走るランナーがいると、無性に腹が立った。
こんなペースでちんたら走ってんじゃねえよ。俺はおまえ等とは違うんだ。俺はお前らみたいに遊びで走ってんじゃない。これは、俺の大事な儀式なんだ。新しい自分に生まれ変わるための大事な儀式なんだ。俺はお前らなんかとは走る次元が違うんだよ!
内心でそんな悪態をつきながら、俺はしゃにむに走っていた。
快調だった。ペースを上げても全く苦しくなかった。
はっ、はっ、はっと呼吸するたびに、肺の中に入った酸素が赤血球に乗って血管の中を縦横に駆け周った。酸素を受け取った細胞が石炭を放り込まれて勢いよく蒸気を噴き出す蒸気機関車のように躍動した。
地面を蹴るたびに、ハムストリングがばねのようにしなって、体を前に前に押し出した。腿が自然と高く上がり、まるで飛んでいるような感覚だった。
全身に力が漲っていた。こんな感覚は久しぶりだった。まるで十代の頃に戻ったようだった。
自分より前にいる奴はどんどん抜いた。抜いた奴を威嚇するかのようにそいつのすぐ脇を駆け抜けていった。
俺の中の何か、自分でも抑えきれない何かが俺を走らせていた。
いつの間にか相当前の方を走っていた。もはや周りには、簡単に抜けそうなやつは残っていなかった。俺は先の方を見据えた。
すると、少し離れてはいたが、塊となって走ってる何人かの姿が目に入った。俺は、そいつらに追いつこうとさらにペースをあげた。
そいつらは5人ほどの集団で、どいつもこいつもオレンジや青色の上下おそろいのランニングシャツとランニングパンツを履いていた。おそらく、どこかのチームにでも所属している走り慣れた連中なんだろう。そいつらは互いに牽制し合いながら、突かず離れずひと塊となって走っていた。
さすがに、簡単に追いつくことができなかったが、それでも必死にペースを上げ、なんとかそいつらの背後にまで迫っていった。
俺は一番後ろのやつの背後に食らいつくと、一気にその集団の中に割って入った。
ちらと見ると、全員、年は20代から30代くらいだろうか、俺より若い奴もいれば、同じくらいのやつもいた。
だがそいつらは俺のことなど眼中にないかのように、ただひたすら前を向いて走っていた。
癪に障った。
どうせこいつらは白いTシャツをきただけの俺を見て、ただの素人と思っているに違いなかった。
俺だって、必死になって練習してきたんだ!
そう簡単に負けてたまるかよ!
それにお前らなんかに負けてるようじゃ、もっと先を走っている連中に勝てっこねえじゃないか。俺はもっと前に行けるんだ、もっと上を目指せるんだ。
俺はがむしゃらに走っていた。とにかくこいつらを見返してやりたかった。
俺はさらにペースをあげた。明らかに今まで走ってきた中で一番速いペースだった。練習でもこんなペースで走ったことはなかった。俺は集団のトップに躍り出た。
はっ、はっ、はっ、という呼吸の感覚がさらに詰まった。心臓が爆発しそうだった。だけど俺はなんとかそのペースを維持し続けた。
後ろが少しだけ離れたような気がした。
どうだ!
見たか!
俺はお前らなんかに負けねえ。負けてらんねんだ!
俺は内心叫んだ。
だがそれも束の間、すぐに背後から足音が迫ってきた。あっという間にオレンジのユニフォームを着た男が俺を交わして再びトップに躍り出た。そして次々に残りの連中が俺を追い越していった。
俺は必死だった。
なんとか食らいつこうとした。そいつらの後ろにへばりついて、そいつらのペースに遅れまいとした。だけど、少しづつ、少しづつ、そいつらは俺の前から離れていった。
俺の息は完全に上がっていた。
どんなに息を吸っても、どんなに酸素を吸いこんでも、俺の体はそれ以上速く走ることができなかった。体が今にもぶっ壊れそうだった。
はあ、はあ、はあ、と荒い呼吸を繰り返しながら、苦渋に満ちた顔で俺は次第に遠ざかっていくそいつらの背中を見ることしかできなかった。
不意に古い記憶が脳裏に蘇った。
高校時代、学年でトップクラスの成績だった俺は、まあまあ名の知れた大学に入ることができた。同級生たちは入学が決まった俺を取り囲んで、お前すげえなと俺を讃えた。俺はそいつらを前に、別にこんなのどうってことねえよと妙に冷めた感じで言ったものだった。
そんな感じだった。
俺は、人よりできる人間なんだと普通に思っていた。人に負けるなんて思ってもいなかった。
だから大学に入っても、当然トップになれるもんだと当たり前のように思っていた……だけど違った。大学には俺より頭のいいやつが山のようにいた。どんな奴にだって負けるはずないと思っていたけど、俺なんかが逆立ちしたって適わないような本当に凄い奴がごろごろいた。
そいつらは、俺が平凡なキャンパスライフに明け暮れているその隣で既に俺のはるか先を走っていた。
NGOに興味を持ち、イギリスの大学に留学してしまった奴がいた。
学生のくせに起業して、あっという間に億万長者になってしまった奴もいた。
俺たちの学年で一番頭の良かった奴は財務省に入った。
そいつは卒業間際に俺にこう言った。
「俺がこの国をなんとかしてみせる」
俺は、そいつらが颯爽と走り去っていく背中をただ眺めることしかできなかった。
俺は大学を卒業すると実家に戻り、地元の企業に就職した。