アマチュア作家の面白い小説ブログ

素人作家がどこまで面白い小説を書くことができるか

(八)

 10キロの表示を通り過ぎた。
 時計を見たら、35分を切っていた。自己最速のタイムだった。だけど、これは完全にオーバーペースだった。
 ここがゴールならこのタイムで大いに満足したろう。だが、今日はフルマラソンだ。ゴールまでまだ30キロ以上残っていることを思えば、到底、こんなペースで走り続けることはできなかった。

 俺はペースを落とさざるをえなかった。だが、出だしでペースを上げ過ぎたつけが体に出始めていた。限界に近いペースで走ってしまったことで疲労が筋肉に蓄積されていた。あれだけ軽かった足が妙に重くなっていた。
 だけど俺は必死に足と腕を動かして、走り続けていた。
 そんなときだった。不意に後ろから足音が聞こえてきた。
 俺はびっくりして後ろをちらと見たが、そいつは俺がだいぶ前に抜いた男だった。
俺と同じくらいの年だろうか。俺と同じく普通のTシャツを来ていた。そいつがいつの間にか俺の背中に迫っていた。

 後ろから、たったったっという足音が聞こえるのは、いい気分じゃない。
 煽られているような、挑発されているような気分になる。
遅えよ! そんなペースで走ってんなら一気に抜いちまうぞ! そんな風に言われているような気さえする。
 俺はその音が我慢ならなかった。その音を引き離そうと、なんとかペースを上げた。
 だが、その音は遠ざかるどころか、いくらペースを上げても、同じように後ろからついてきた。いや、それどころか、どんどん近く、どんどん大きくなっていった。
 足音とともに別な音も聞こえてきた。そいつの呼吸音だった。
 はっ、はっ、はっ、そいつは俺と同じように息を吐いていた。だが、そいつの吐く音は俺の呼吸音より小さく、規則正しく、そしてリズミカルだった。

 そいつの呼吸音が真横で聞こえた。そいつは俺の隣に並んでいた。
 俺はちらとそいつを見たが、そいつは俺のことなど見向きもせずただ前だけを見つめていた。そして、そのまま一気に俺を抜き去り、俺の前に出た。
 目の前にそいつの背中があった。俺はその背中を見た瞬間、かっとなった。

 凄い奴はいる。そういう奴に負けるのはしょうがない。
 だけど、さっきまで俺の後ろを走っていた奴に負けるのは我慢ならなかった。
 俺は歯を食いしばってペースを上げた。そして、再びそいつの隣に立った。
 そいつと俺は一進一退を繰り返した。そいつが出れば俺が追いつき。俺が出ればそいつが追いついた。

 俺は負けたくなかった。
 そいつもきっと俺と同じような平凡なサラリーマンなんだろう。どうせ俺と同じようにくだらない仕事をしてるんだろう。
 そんな奴に負けたくなかった。
 どのくらい並走したろう。3キロか5キロか、もの凄く長い間競り合ったような気がしたが、実際のところ1キロも走っていなかった。15キロの表示が見えたとき、そいつが再び俺の前に出た。
 ペースを上げたのか、一瞬俺はそう思った。だが違った。ペースが上がったんじゃなかった。そいつのペースに俺がついていけなくなっていた。

 

 10キロで35分ってことは、平均すればキロ3分半のペースで走ったことになる。それは自己最速のペースだったが、さすがにこのままじゃ続かないと、そこからは意図的にペースを落とした。こいつと走っていた間は、だいたい4分くらいだろうか。
 キロ4分というペースは、自分では十分に対応できると思っていたペースだった。自分の中では、いけるところまでいって、厳しくなったらそのペースで走ろうと考えていた数字だった。練習でもそのペースは十分クリアできていたし、幾分か余裕があるペースですらあった。だが、そのペースで走ることができなくなっていた。
並走しているこいつは、しっかりキロ4分のラップを刻んで走っているのに、俺はそのペースについていくことができなくなっていたのだ。

 キロ4分とか言ったけど、それが、どのくらいの早さか走ったことがないやつはよく分からないかもしれない。簡単な計算だ。キロ4分ってことは、1000メートルを240秒で走るってことだ。ってことは、100メートルを24秒で走ることになる。100メートル24秒なんて遅いだろって思うかもしれない。確かに、100メートル走をやれば、足の速い奴なら12秒とか13秒で走るだろう。少々足が遅い奴だって15秒前後で走れるだろう。それに比べればえらく遅いじゃねえかって、そう思うかもしれない。だけど、100メートル走走るとき、どんな顔して走る。誰だって、もの凄い形相で走ってる。ゴールに辿り着いた途端にグランドに倒れ込んでしまう奴だっている。そんなペースで1000メートル走れるか、10000メートル走れるか、42.195キロ走り続けることができるか。
 一度でいいから、キロ4分というペースで走ってみろ。そうすれば、それがどれだけ早いか思い知る。走ったことがない奴だったら、そのペースで200メートルも走れないだろう。

 マラソンを走るってことは、そういうことなんだ。速く走ることはもちろん大事だが、一番大事なのはそのペースを最後まで維持できるかってことなんだ。自分のペースで最後まで走りきれるかってことなんだ。

 人ってのは、なんだってそうだ。見たり聞いたりしただけでなんでも分かったような顔になる。テレビ見たり、ネット調べただけの癖に、まるで自分が体験した事実であるかのように語り始める。だけど、本当はなんにも分かっちゃいない。自分がやってみなきゃ、本当のことは何にも分からない。自分がやってみて初めて、たった一秒の違いが、どのくらい大変なものか思い知る。
 分かってた。そんなこと俺だって分かってた……いや、違う……分かっちゃいなかった。そういう俺こそ、何にも分かっちゃいなかったんだ。
 少し走れるようになっただけでいい気になって、もっとやれる、もっと走れるはずだなんて、勝手に思い込んでいた。一度もフルマラソンを走ったこともないくせに、限界まで飛ばしてもペース落とせばゴールできるだろうなんて、そんなこと考えていたんだ。

 さっきと同じだった。そいつと俺との距離はだんだんと広がっていた。
 俺は必死に追いつこうとした。だけど息が苦しかった。足がひどく重かった。
 俺のペースはどんどん落ちていったが、俺の前を走るそいつは、ずっと同じように淡々と走っていた。そう、そいつはずっと自分のペースを守っていたんだ。俺なんかと違って、変に意気込むことなく、ゴールを見据えて、自分のペースをしっかり維持して走っていたんだ。俺がそいつを抜いた時も、そいつはむきになることもなく、自分の力を的確に見極めて走っていたんだ。

 

 こっちに戻ってからよく遊んでいた友達がいた。
 そいつは高校の時はそんなに出来る奴じゃなく、引っ込み思案で影が薄い奴だったから、当時はあまり親しくしていた
わけじゃなかったけど、こっちに帰ってきて久しぶりに会ったら、まるで人が変わったみたいに社交的になって、話題も広いし、すぐに一緒に遊ぶようになった。
 そいつは昔と違って、付き合いも広くて、地元の青年会や地域活動なんかにも積極的に参加していた。そいつは一度、俺にも参加してみないかと声を掛けてくれた。だけど俺はそんなの面倒くせえよって、相手にしなかった。

 そいつは去年結婚した。相手は同じ青年会に入っていた三つ下の可愛い女の子だった。
 結婚式には俺も招待された。
 俺は、新郎新婦が俺の知らない青年会の仲間たちに手荒い祝福を受けているのを別のテーブルから眺めていたが、なんだか、ひどくそいつが遠い存在に思えた。
 そいつは結婚して、今でも幸せに暮らしている。
 たまに飲まないかって今でも誘いの電話がくるけど、なぜか一緒に飲もうという気になれなくて、可愛い奥さんがいるんだから、そんなこと言わないでさっさと家に帰れって、俺の方が変な理屈こねて断わるようになっていた。

 俺は高校時代どっかでそいつを馬鹿にしていた。そしてその感情は、こんな年になっても心のどこかに残っていたのかもしれない。でも、そいつはいつの間にか俺なんかより立派になっていた。俺なんかと違って、社会の中でしっかり生きていた。
 おそらく、俺はようやくそのことに気づいたんだ。だから、そいつと会うことに気後れするようになっていたんだ。
 俺はガキの頃から、あいつは足が早いとか、喧嘩が強いとか、頭がいいとか、そんなことで、その人間を量っていた。俺の方が上、あいつは下って、勝手にレッテル張っていた。
 だけど、そんなの全然大したことじゃなかった。
 本当に大事なことって、走り続けることだった。しっかりと走り続けることだったんだ。
 まだ、レースは途中だったんだ。勝負なんて全然ついちゃいなかったんだ。
 俺の前から遠ざかっていくランナーは、その友達のように見えた。
 そいつは俺なんかよりはるかに立派に成長して、俺の前を颯爽と走っていた。

 

前を走るランナー

 

次話へ

TOP