アマチュア作家の面白い小説ブログ

素人作家がどこまで面白い小説を書くことができるか

(十)

 ようやく30キロの看板が見えた。
 足が丸太棒のようで曲げることさえままならなくなっていた。とにかく足が重くて、足をちょっと動かすことすら辛かった。それでも、どうにかこうにか足を動かすのだが、足が地面に接するたびに、足裏を金槌で叩かれるような衝撃に襲われた。足はギシギシと軋み、筋肉は金属のように硬直していた。もはや、歩くことすら難しくなっていた

 太陽は天中に昇り、日差しはさらに強くなっていた。髪を触ると熱いくらいになっていた。頭皮からも汗が吹き出し額の汗と混じって、顔面を流れ落ちた。
 汗が目の中に頻繁に入るので、なんども手の甲や腕で拭ったが、手の甲も腕も汗びっしょりで、拭うどころじゃなかった。
汗が目に沁みて痛かった。
 俺はとうとう足を止めた。足を止めて、Tシャツで顔を拭おうとした。でも、Tシャツはたっぷり汗水を含んで、とてもじゃないが、汗を拭えるような代物じゃなかった。
 俺は目をつぶりながらTシャツの下の方を持つと、ぎゅっと絞った。
 信じられないくらいの量の水分がこぼれ落ちる音が聞こえたが、そんなことはどうでも良かった。俺は絞ったTシャツで顔を拭った。でも、拭っても拭っても、拭ったそばから汗が滲んできた。

 俺は、はあ、はあ、はあ、と荒い息を吐き、両手を膝にあてて下を向いた。コンクリートの上に、ぽたぽたと汗が滴り落ちるのが見えた。髪は焼けるようで、頭もぼおっとしていた。ゴールはおろか目の前のことさえ、考えられなくなっていた。
 顔を上げて、先に続く道を呆然と眺めた。道路ははるか彼方までずっと伸びて、見通すことすらできなかった。

 それでもふらふらと歩き出した。
 もう、俺のことを追い越す選手のことなどどうでも良かった。ただふらふらと歩いていた。

 

 ふと、何か聞こえてきた。
 なんだと思って前を見ると、少し先の方に家があって、そこの住人が椅子に座って、旗を振って選手を応援していた。俺はそれを見た瞬間、ものすごく嫌な顔になった。

 なんで、お前らこんなとこで応援してるんだよ
 日がな一日、こんなとこで応援してるなんて、よっぽど暇じゃねえのか
 お前らの応援なんていらねえんだよ
 お前らがいると頑張ってる姿見せねえといけねえじゃないかよ

 俺はため息をつくと、少しだけ走るふりをした。だが、たったそれだけで足に激痛が走った。

 痛え! 
 なんだよ、痛えじゃねえかよ!

 俺は顔をしかめたが、なんとか我慢してそいつらの前に近づいていった。

 くそっ! なんで、こんなに痛い思いして走らなくちゃいけねえんだよ
 なんでお前らのせいで、こんなに苦しまなくちゃいけねえんだよ

 心底から嫌そうな顔をして、俺はそいつらの前を通り過ぎた。だがなぜか、そいつらは一言も俺に応援の言葉をかけなかった。
 俺はそいつらの前を過ぎると、今度はひどく腹が立ってきた。

 なんだよ、俺はお前らのためにこんな痛い思いして走ったんだろうが
 なんで応援しねえんだよ、ふざけんじゃねえ

 俺はあまりの腹立ちに頑張る気も途端に失せて、またとろとろと歩きだした。
 すると俺の後ろで頑張れって応援する声が聞こえた。一瞬、それは俺のことかと思った。
 だが違かった。それは俺の後ろにいた選手に対する声援だった。
 そして、その声援を受けた選手は俺の脇を颯爽と過ぎていった。
 そいつは俺の後ろにいる住人に向かって手を振りながら、にこやかに笑って走っていった。

 俺の肉体も精神ももはや限界だった。
 あまりの熱さにまともに考えることさえできなかった。視点も焦点があってないようで、とにかく下を向いて足を引きずっていた。
 そしてずっとぶつくさと何かをしゃべっていた。

 初心者がいきなりフルマラソン走ろうってのがそもそも無茶だったんだ

 こんなことして、なんになるんだよ。金にもならないし、明日は普通に仕事だってある。ここで、やめたって誰も文句も言わないし、誰に迷惑かけるわけでもない

 こんなマラソン走りきって、それで人生変わるなんて、そんなことあるわけねえじゃないか。いったい俺、何考えてたんだ

 もういいよ、こんなとこで無様なかっこさらして、喘いでいるなんてもうまっぴらだ。家に帰って水風呂入ってベッドで横になろうぜ。ゆっくり休んで、ビールでも飲んでさ、最高じゃないか

 この道をもう少し行けば、実家の前を通る。そこでやめにしよう。もう十分だよ。家に帰って、ゆっくり休もう。車は後で取りに行けばいいんだ。そうだ、終わりだ、終わりにしよう

 そう、こんなことに大した意味なんかない、意味なんかなかったんだ

 もうお前も十分、分かったろ。所詮、人生こんなもんだって

 心の中で何度もしゃべっていた。誰に向けてしゃべっているんだろう。俺の中に誰か別の奴でもいるんだろうか、とにかく俺はそいつに向かって、何度も何度も言い聞かせていた。
 そして、俺の中の誰かは、とうとうそれを受け入れた。

 

 リタイヤすると決めたら、急に足が軽くなった。身も心も軽くなった。まるで肩に乗っかっていた重いものがふっと消え失せたようだった。早く、早く、一刻も早く家にたどりつきたい。俺は足をひきづりながら、急くように家に向かっていた。

 もう少しだ、もう少し

 見えてきた、ようやく着いた

 終わった、ようやく、終わった

 俺は腹の底から安堵して、家の門口のところに目をやった。
 その瞬間、俺の視界に意外なものが飛び込んできた。
 部屋で休んでいるはずの親父が車椅子に乗って家の前にいた。そして、その脇には、おふくろが立っていた。親父は外出用の服に着替えて、こちらを見つめていた。おふくろは旗をもって、何か叫びながら親父の肩をゆすっていた。

 俺は頭の中が真っ白になった。あそこまで行ってリタイアするつもりだった。家の中に飛び込んで、ベッドに大の字に寝っ転がるつもりだった。でも、親父が俺をじっと見てる、おふくろがあんなにうれしそうに俺を応援している。

 どうしよう、どうしたらいい、いや何も考えることなんてない。あそこまで行って、親父とおふくろにもう足が動かないから、ここでリタイアすると言えばいい。ただそれだけのことだ。そうだ、何も問題なんてない。俺はそう自分に言い聞かせて、一歩一歩、家に近づいて行った。

 親父の顔がはっきり見えてきた。昔のまんまの親父の顔だった。子どもの頃、悪いことをした時には、血相変えて俺を怒鳴りつけた。高校卒業した時には、俺には見せないようしてたけど、その目は真っ赤になってた。地元に帰ってきて俺が就職してからは一緒に飲んだこともあった。その時の親父は本当に嬉しそうな顔して、上機嫌でおふくろに熱燗のお代わりを頼んでいた。
 
 親父が脳梗塞で倒れたとき、俺が病室に駆けつけると、麻痺で口がうまく使えない親父は必死になって俺の手を掴んだ。そして、俺の手が壊れるんじゃないかと思うくらい、俺の手を強く握り、大きく眼を見開いて俺を見つめ、隣で涙を流して、おろおろしているおふくろの方になんどもなんども顎をしゃくった。張り裂けそうなくらいに目を大きく見開いて、何かを求めるように俺を強く見つめていた。

「親父、大丈夫だ! おふくろのことは心配すんな。俺が必ず、守るから、絶対に守るから! だから心配すんな――今度は俺の番だ、俺が必ず、必ず、みんな守ってやるから!」

 俺は、親父の手を強く握り返してそう言ってた。親父は俺の言葉を聞くと、何かから解放されたように俺の手を放して、微笑みを浮かべて、ゆっくりと目を閉じた

 その親父が俺を見ていた。俺のことを真剣な目でじっと見ていた、俺だけを見つめていた。そして、その隣では、おふくろが頑張れ頑張れって涙ぐみながら俺に向かって叫んでいた。

 俺と親父の距離はどんどん縮まっていた。親父はずっと俺を見つめていた。俺は親父の顔を見るたびに、自分の顔が鬼のような形相になっていくのを感じた。眼も大きく開き、歯ぎしりするぐらい顎に力が入った、鼻の穴が大きく開き、物凄い量の空気を吸い込み、吐き出した。そして、俺の重心はいつしか前に移っていた。俺は走り出していた。

 二人の前を通り過ぎた。俺は、俺をじっと見つめる二人に軽く頷いて、そのまま家を走り抜けた。おふくろの声援が後ろから聞こえた。その声が俺の背中を押した。

 なぜ、どうして、理由は自分でもよく分からなかった。だけど、一つだけはっきりしていることがあった。俺は、あんな俺の姿を親父とおふくろに見せたくなかった。親父とおふくろにこんな情けない俺の姿を絶対に見せたくなかった。それに、誰かが俺に向かって叫んでるんだ。

 まだ諦めるな、まだ走れるはずだ、お前はまだ走れるはずだ。まだ終わっちゃいない、走り続ける限り、まだ終わっちゃいないって。

 

手を握る

 

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