角を曲がると40キロと書かれた看板が立ってた。その40キロという文字を見て、俺は一瞬、立ち止まった。
40キロ、絶対に無理だと思っていた世界にたどり着くことができた気がした。一度は諦めた。でも、必死になって進み続けて、今までの俺だったら絶対に届かなかったものに手が届いたような気がした。
その時だった。
「先輩! 頑張って!」
喧騒の中から聞き覚えのある女性の声が大きく響いた。俺は思わず、その声の方を振り返った。
そこには、いるはずのない女性が立っていた。
職場の同僚の上田芙紗子が旗を振って、必死に俺を応援していた。俺は何か幻でも見ているようだった。だが、その女性は紛れもなく、俺が思いを抱いていた上田芙紗子だった。
「先輩、あと2キロちょっとですよ! もうちょっとです、頑張って!」
芙紗子の言葉は茫然としていた俺の心を現実に戻した。
あと2キロ、そうだ、あと残り2.195キロなんだ、ゴールはもうそこなんだ。
俺は再び進み始めた。
芙紗子は俺のペースに併せて沿道を歩きながら、頑張って、頑張ってと必死になって応援してくれた。
彼女の一言一言が俺に力を与えた。どこから湧き出てくるのか、俺の中で力がどんどん生まれていた。足を動かすたびに、雷に打たれたような激痛が両足を襲ったが、その痛みも彼女の声援を聞くとすっと消えた。
沿道には何百人もいるにも関わらず、俺は芙紗子とたった二人だけで走っているような気がした。
俺たちは、そうやって、一歩一歩、一緒に歩み続け、とうとう、ゴールに辿り着いた。
ゴールラインを過ぎた瞬間、俺は精魂尽き果てて道路に倒れかけた、すると、脇にいた彼女がすっと俺の肩を抱えてくれた。
「……おれの服、べちょべちょだぞ……」俺はかすれた声で言った。
「フルマラソン走り切ったんだから、汗かくのあたりまえじゃないですが、そんなの気にしない、気にしない。さあ、とりあえず、どこかで休みましょう」
彼女はそういって、汗だくの俺を抱えて、俺が荷物を置いたところまで運んでくれた。
彼女は座ることもままらない俺を優しく介護するように座らせてくれた。そして、タオルで一生懸命俺を扇ぎ始めた。
「……どうして、こんなとこにいたんだ……」
俺は息も絶え絶えに彼女を見上げて、つぶやいた。
「だって先輩、マラソン走るって言ってたじゃないですか。それに私のアパートって、あの角のところだったんですよ。だから、先輩ホントに走ってるのかなってずっとあそこで見てたんです」彼女は笑いながら言った。
「……そっか、そうだったんだ……」
いろんな思いが頭を過った。でも考えるのをやめた。彼女はいま、俺の前に立っている、それだけで十分だった。
「……ありがとう。君が応援してくれたから、なんとかゴールにたどり着けたよ……かなりかっこ悪い姿みせちゃったけど……」
「そんなことないですよ! すごいかっこ良かったです」彼女はそう言うと、ちょっと顔を赤らめてつぶやいた。
「……こんな、先輩とだったら、一緒にどこかに行きたいなって思いました」
俺は、最初彼女が何を言っているのかよく分からなかったが、彼女のはにかんだような顔を見つめるうちに思わず叫んでた。
「……えっ……だって、前は」
彼女は少し照れたような顔で、
「……だって先輩、せっかく食事にいっても、私のことしか聞いてこなかったじゃないですか。私が先輩のこと聞いても、俺の話なんてつまんないからって、全然自分のことしゃべってくれないし、なんか仕事もつまらなそうにしているし……だから、この人って、どういう人なのかなってちっとも分からなくて……それに、私、何歳になっても何かに夢中になって一生懸命頑張っている、そんな男の人が好きなんです」そう言うと、ちょっと意地悪っぽく笑った。
「だから、先輩がマラソン出るって言ったときも、ほんとにこの人出るのかなって疑っちゃって、半信半疑であそこで応援してたんです。でも、先輩ほんとに来るんだもん。私、すごい、びっくりしちゃいました」
……そっか……そりゃそうだよな。
確かに俺は彼女に気に入られようと、そのことしか頭になくて、彼女が言うことにずっと相槌打ったり、話合わせてただけだった。そりゃ、そんな薄っぺらい男に女が惚れるわけないか。
俺は芙紗子の話を聞いて、まるで人ごとのように苦笑した。
「あっ! 先輩のゼッケン番号235番ですよ」突然、芙紗子が大声を出した。
「えっ?」
「235、ふさこじゃないですか!」
「……あっ……ほんとだ」俺は自分の胸につけたゼッケンをまじまじと見つめた。
「うわっ、すごい偶然ですね。もしかして、先輩、その番号狙ってたとか」
そう言って俺を見つめる彼女の顔は、職場で見せる顔よりも数倍可愛らしくて、今まで感じたことがない温かみと親しみがあった。
「そんなことできるわけねえだろ……」俺はそう言ったが、ちょっと恥ずかし気に付け足した。
「……でも、このゼッケンは俺の一生の宝物になるかな」
俺の言葉を聞いた彼女はうれしそうに笑った。そして、少し間があってから、彼女は俺に言った。
「私、先輩の走る姿みてたら、私も走りたくなっちゃいました。ねえ、先輩。来年、一緒に走りましょうよ――それとも、もう、走るのはこりごりですか?」
俺は彼女の顔を見つめた。俺の前にかがみこんだ彼女は、太陽に照らされてキラキラと光り輝いていた。俺は彼女から今度はフルマラソンを走り切った自分の足に目を移した。ごつごつと硬く張って一面傷だらけだったが、俺の足も光を浴びて歴戦の勇者のように光り輝いていた。俺は、くりくりとした目で俺を見ている彼女に目を戻すと、にこっと微笑んだ。
「――いや、走るのも、まんざら悪くない」
マラソンは、人生に似ている。42.195キロ走り終わったとしても、まだ、その先があって終わりがない。
颯爽と走れなくたっていい、かっこ悪くたっていい、大事なのは走り続けることだ。そうすれば、道はずっと続いていく。