すると、後ろから大きな声が聞こえてまいりました。
「なんだ、女がおらぬ」
「女はどこだ、どこぞに逃げおったか」
「おのれ、逃がさぬぞ」
「匂いがするわ」
「おお、血の臭いだわい」
「こちらじゃ、こちらじゃ」
「決して逃がすな」
お妙は生きた心地がしません。
とにかく、暗闇の中を走りました。
山を下っているのか、登っているのかそれさえ分からぬまま、ひたすら走り続けました。
暗闇のこととて、何度も足をひっかけて転んでしまいます。そのたびに後ろの方から、
「こっちに逃げおった!」
「今、何やら転んだ音がしおったぞ!」
「こちらじゃ、こちらじゃ」と声が聞こえてまいります。
その都度、お妙は力を振り絞って立ち上がり、再び、走り始めます。
「観音様、観音様、どうぞ、お助けください」心の中で、そう念じながら必死に逃げたのでございました。
何度目のことでしょう。お妙はまたしても枝に足をひっかけて転んでしまいました。
すると、お妙の脇を鹿が駆け抜けていきました。
鹿だけではありません、兎やら狸、鼠や猪も山の神から必死に逃げているのでございました。
「腹が減った。腹が減った」
「鹿でも食うか」
「狸でも食うか」
そう言うと、後ろから獣たちの哀れな鳴き声が響いたかと思うと、ゴリゴリと骨ごと食いちぎる音が聞こえてまいりました。
その恐ろしさと言ったら、例えようもありません。
お妙は、なんとか震える体で立ち上がり、再び走り始めました。
お妙の足の裏は岩や石に裂かれて、もう血まみれです。
こんなに走ったこともないお妙は、もはや息も絶え絶えで足もふらふらです。
――もう、だめ、もう走れない――
お妙が思った、そのときでした、どこからか声が聞こえてまいりました。
――お妙や、もう諦めるのか、周りの動物たちを見てみるがいい、みな必死になって逃げている。みな必死になって、生きているのだぞ。お前は、そんなに簡単に命を投げ出すというのか――
お妙の周りを鹿や狸や兎たちが、必死になって逃げております。
それを見たお妙は、再び歯を食いしばって走り始めました。
必死に、必死に、走り始めました。
すると、今度は、今までとは違った声が後ろから聞こえてまいりました。
「ほら、追い込め! 猪が、そっちに行ったぞ!」
「そら、射殺せ!」
「倒れた! いまだ、とどめだ! 頭をこん棒で叩け!」
「やったの、大猪じゃ、これで、佐五平どんのところに良い土産ができたわ……」
「おっかあ、どの鶏にすんのじゃあ」
「ほら、卵を産まなくなった、一番、黒い奴でええ」
「この黒い奴な――ほら、逃げるな、観念せえ!」
「ほんじゃ、殺さんで、足縛って、佐五平どんのところに持って行ってくれや……」
「この鯉、だいぶ、大きいわね」
「お園さん、ちょっと抑えておいて、暴れて、一人じゃ、捌けないわ」
「お京さん、これでいい」
「ちゃんと抑えていてよ、今、鰓に包丁入れるから」
「うわ、この鯉、すごい動くわ、早く早く!」
「ほら、観念なさい!」
「ようやく、大人しくなった。でも、立派な鯉だわね。お妙もきっと喜ぶわ……」
その合間も、後ろから動物たちの悲鳴が聞こえてまいります。
――ああ、なんということだ、私の食べた御膳のために、たくさんの獣たちが犠牲になったんだ――
――私は、そんなことを露も思わず、ただただ己のみが不幸であるとしか思い至らなかった――
――今だってそう、鬼から逃げているのは私だけではない、動物たちも私と同じように恐怖に震えながら、必死になって逃げている、必死になって生きている――
お妙は、いつの間にか涙を流して走っていました。
――なんと、この世は、哀れな世界なんだろう――
――他のいのちを食らって生きねばならないんだ――
――みんな、そうして、精一杯、必死に生きてるんだ――
そして、精も根も尽き果てて、その場に倒れました。
後ろから、ざわざわと、みしみしと足音が聞こえてまいりました。
お妙が後ろを振り返ると、それは、なんとも不思議な集団でございました。
鹿の頭をした鬼、猪の頭をした鬼、鶏の頭をした鬼、鯉の頭をした鬼、たくさんの獣の頭をした鬼がお妙を取り囲んでいました。
「――おんなよ、もうよいのか」
大きな猪の頭をした鬼が一歩前に出ると、重々しい声で言いました。その声を聞いたお妙は、息を整え、鬼の方にしっかりと向きあって、座りなおしました。そして、
「私も精一杯走り切りました。もう思い残すことはありません」そう言うと、両手を合わせて、静かに目を閉じました。
鬼たちは、ゆっくりとお妙に近づくと、その体にむらがり、肉に噛みつき、骨を齧り、その身を貪り喰らいました。
鬼たちは、お妙を喰らっているのですが、なんとも悲しい声が聞こえてきました。
うおおお、うおおおと泣きながら、お妙の身を喰らっているのでございます。どの鬼の目にも涙がこぼれ、哀れな声をあげながら、しかし、必死になって、喰らっているのでございました。
その様子を天上から、観音様が哀し気な、しかし、なんとも優しい眼差しで、ご覧になっておりました。そして、おいでというように手招きをいたしました。
すると、鬼たちの体が、金色に光り輝き始めました。
そして、鬼たちは、それぞれ、猪となって、鹿となって、狸となって、兎となって、鶏となって、鯉となって、元気な声をあげながら、天上に昇っていくのでございました。
その中に、静かに微笑みながら、観音様のお傍に向かっていく、お妙の姿があったそうでございます。
了