アマチュア作家の面白い小説ブログ

素人作家がどこまで面白い小説を書くことができるか

プロローグ

 須弥山しゅみせんの頂上の、そのまたはるか彼方の上空に位置する兜率天とそつてんでは、弥勒菩薩が五十六億七千万年の後に仏として地上世界に降り立ち、善者も、悪者も、獣も魚も、命ある全てのものを等しく救い給うためにはいかにすべきかと、今日も頬に軽く手を当てて、ひたすら瞑想にふけっていた。
 兜率天では数多くの諸天や菩薩が弥勒菩薩とともにひたすら修行に励んでいたが、釈迦如来がご自身の後継者として後事を託された弥勒菩薩の深い思索を妨げようなどと思う不届き物は一人もおらず、天上で妙なる音色を奏でている迦陵頻伽かりょうびんがも敢えては傍に近寄らず、弥勒菩薩の周りはいつも静寂に包まれ、ふくよかな香りに満たされ、清らかな空気が流れていた。

 ところが今日、長いこと使う機会もなかった弥勒菩薩の耳に、誰かが近づいてくる足音が聞こえてきた。その足音も羽のようにひたすら軽く、誰か徳の高い菩薩の一人が近づいてくるのだと悟った弥勒菩薩は、頬から手を放すと顔を上げて目を薄っすらと開いた。すると、目の前には菩薩の中でも智慧第一とされる文殊菩薩が申し訳なさそうに立っていた。

「弥勒よ。尊き修行中の御身を煩わせて誠に申し訳ない」

「どうしたのだ文殊よ。そなたがこんなところに来るなど、絶えて久しくなかったことだが」弥勒菩薩が柔らかな口調で尋ねた。

 すると文殊菩薩は憂いを秘めた面持ちで、
「実はな、如来が二千五百年ぶりに説法をされるというのだ」と言った。

「なんと。して、それはいかなることについての説法なのだ」弥勒は驚いて、文殊を問い詰めた。

「如来の御心のうちを推し量ることはできぬが、もしや十全の力についてお話なされるのではという噂が巷に広まっておる」

 文殊菩薩が言った一言に弥勒菩薩は一瞬押し黙った。
「……十全の力と」

「さなり。それで心配になって、そなたの元に参ったのだ。そなたも知ってのとおり、十全の力は如来に至るものだけに備わる森羅万象を支配する究極の力。しかし今、周りを顧みるに、十全の力を持ち得る一番近いところにいるのがそなたであることは疑いがない。ならば、なぜいま、如来が十全の力を説法なさるのか、その御心を推し量れぬのだよ。もし仮に、御身以外のものが近々如来になるというのであれば、それも誠に結構なことなのだが、そんなものがいようはずもない。となると、もしや如来はご自身の十全の力をお使いになって、この天上天下を無くされるおつもりなのではと、そんなことさえ思ってしまうのだよ。とりあえず、御身にこのことを話しておきたいと思ってな。ただの風の噂であってくれればよいのだが……」

 そういうと、文殊菩薩は来たときと同じように、羽のような足取りで足早に去っていった。
 残された弥勒菩薩は、再び頬に片手を添えて、このことの意味を考え始めた。眉根を寄せたその顔は、さきほどまでの深い明吾の境地とは異なり、なにやら深い憂いの影をはらんでいた。

 

兜率天

 

次話へ

TOP