空が茜色に染まるころ、庫裡では片付けを終えた女たちが帰り支度を始めていた。既に男たちはみな千鳥足で帰ってしまい、寺は昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
楓も身支度を済ませ帰ろうとしたが、浴びるように酒を飲んでいた三蔵の様子が気になったので広間の方に行ってみることにした。楓が広間を覗くと、柱に寄りかかりながら相変わらず茶わん酒をちびりちびりと飲んでいる三蔵の姿が見えた。既に二升か三升は飲んでいるはずなのに、ほんのりと赤みがさしたくらいで、三蔵の顔はあいかわらず陶器のように透き通った白い肌をしていた。
「まだ飲んでるの。よく飽きないわね」楓は三蔵に近づきながら、飽きれたように言った。
「――こんな景色を見ながら酒を飲めるだけで、ここに来た甲斐があるってもんだ」三蔵は庭を見ながらつぶやいた。
三蔵の視線を追うように庭を眺めた楓だったが、確かにそれは絶景ともいうべき光景だった。夕日を浴びた紅葉が燃えるように赤く色づき、銀杏が黄金のように光り輝いていた。雑草だらけだと思っていた庭も、ススキの綿帽子のような白い花があたり一面を飾り、青紫が映える桔梗やピンク色に色づく秋桜や萩が競うように咲き誇っていた。
「この地は美しい……」三蔵がぽっと言った。
楓は、そう語る三蔵を見つめた。
「……でも、危険な場所なんでしょう」
「危険か。確かに危険と言えば危険だ。だが危険だからといって逃げ出しても本当の解決にはならないし、厳しくてもやらなきゃならないことがある。だからこそ、生きる意味があるし、だからこそ、この世界は美しい」
そう語る三蔵の横顔には夕日が映えて、神々しいばかりに光り輝いていた。楓は縁側に腰を下ろして、残照に照らされる庭をしばらくみつめていたが、不意に呟いた。
「――危険なことが起こるの」
「ああ」
「さっき父さんたちが言ってたことも何か関係があるの」
「おそらくな」
「どうして、そんなことが分かるの」
「昨日の夜、声を聞いた」
「どんな声」
「そうだな」そういうと、三蔵は一度酒を口に含み、とつとつと語りだした。
空に三日月が浮かんでいた。三蔵は酒を飲みながら庭を眺めていた。するとどこからか犬の遠吠えが聞こえてきた。最初は、うおおおん、うおおおんと吠えていたが、次第にその声が何やら人の言葉のように聞こえてきた。三蔵は目を閉じて耳を澄ませた。すると、今度ははっきりとした言葉が聞こえてきた。
――青龍寺の住職よ、立ち去れ。我らはお前がここにいることを好まん――
――お前が何をしようとも無駄なことだ。既に、蓋は外れかかっているのだ――
――この地にいれば、お前は死ぬことになる。さっさと去るがいい――
三蔵は微笑を浮かべ茶碗酒を口に含んだ。酒のまろやかな味わいが体中に広がった。感に堪えぬとばかりにふうっと息を吐くと、声がする方に向かって呟くように言った。
「面白い。早く俺の前に現れろ。そうすれば思う存分遊んでやる」
その言葉が空の彼方に消えていくと、犬の遠吠えはぴたりとやんだ。
庫裡の方は静まりかえっており、手伝いにきた女たちはもう全員帰ってしまったようであった。あれだけ騒がしかった広間が今はしんと静まり返り、三蔵と楓だけが座っていた。三蔵は話し終えると再び茶碗酒を口に含んだ。
普通に考えれば到底信じられるような話ではないのだが、すでに何度も奇怪な現象を体験した楓にしてみれば、目の前にいるこの不思議な男の話を信じざるをえなくなっていた。楓は不安げな目で三蔵を見つめた。
「……あなたにも危険があるっていうの」
「そうさ、俺はそのために来たんだからな」
「どうしてあなたはそんな危ないことにわざわざ関わろうとするの?」楓の声は思わず高くなっていた。だが三蔵は楓の方を振り向くと、何とも言われぬ笑みを湛えて言った。
「――だって、誰かが弔ってやらなきゃ、可哀そうだろ」
楓は三蔵の言葉の意味をしかとは理解できなかったが、なぜだかうれしくなった。確かに、高飛車で変なやつだと思った。だけどこの男は楓が生まれ育ったこの地を美しいと言ってくれた。危険があることを知りながら、この地の人々のためにここに来てくれた。
「ねえ、あなたって、本当は良い人なの?」楓は少し意地悪な笑みを浮かべて言った。
三蔵は楓の言葉を聞くとにやっと笑った。
「楓、お前、俺のこと好きになったろ」
楓は三蔵の言葉を聞いた途端、いきなり真っ赤になってしまった。
「……な、なんで、私があんたのこと好きになるのよ」
「なんでって。お前、相当、顔が赤いぞ」
「……そ、そんなこと、いきなり言うからでしょう」
「そっか。悪かったな」三蔵はにこっと笑った。
楓は体中どきどきしたが、まんざら悪い気分でもなかった。三蔵が初めて、自分のことを楓と呼んでくれたことが素直にうれしかった。
「それじゃ、私帰るから」顔が赤いのが恥ずかしいのか、まだどきどきしている心臓の音を聞かれるのが怖いのか、それともうれしさがにじみ出そうな顔を見られるが嫌なのか、楓は急に立ち上がった。
その時だった。急に空が暗くなり、ひんやりとした空気が広間の中に流れてきた。以前感じた冷気と同じだった。楓が不安げな様子で周りを見渡した。
「――そこを動くな」
三蔵はそれまでのおどけた口調とは異なる極度に緊張感を漂わせた声で言った。三蔵と楓はじっと庭を見つめた。さっきまであんなに光り輝いていた木々は黒々とした闇に覆われて墓標のように立ち並び、五彩に彩られていた庭はいつの間にか色のない黒色の世界に変わっていた。どこからか犬の遠吠えが聞こえてきた。しかも一啼きごとに大きさを増していった。
うおおおん
うおおおおん
うおおおおおん
その声は楓の鼓膜を劈くように鳴り響いた。楓は思わず両手で耳を塞いだ。三蔵はすくと立ち上がり、楓をかばうように前に立って庭を睨みつけた。五秒か十秒か、それとも一分ほども経ったろうか、不思議な時間の感覚の中で三蔵と楓はじっと庭を見続けた。
うおおおおおおおおおおおおおおおん
物凄い大きな啼き声が庭から響いた。そしてそれは現れた。草むらの中から現れたのは大きな白い犬だった。水牛ほどもあるとんでもなく大きな犬だった。その犬はのっしりのっしりと近づいてきて、庭の真ん中で止まった。楓はあまりの恐怖に足が震えていた。そんな楓を守るように前に立った三蔵が犬に言った。
「なにものだ」
巨大な犬はじっと三蔵を見つめていたが、重苦しく口を開いた。
「去れと言ったのに――ここに居座るつもりか」
犬のはずなのに、少ししわがれたその声は完全に人間の声と同じであった。だが三蔵は意に介する様子もなく、薄く笑いながら答えた。
「遊んでやるから早く来いとは言ったが、昨日の今日とはな。お前も存外暇なやつだな」
「お前がここにいるのは目障りなのだ」
「しょうがあるまい、俺はそのためにここに来たんだからな」
「命を落とすことになるぞ」
「人間、いつかは死ぬものぞ」
「では、あくまでも敵となって我らの邪魔をするつもりか」
「まあ待て、俺はお前たちと戦うためにここに来たのではない」
三蔵の言葉に犬がしばし黙り込んだ。
「――敵でないとすれば、お前はいったい何しにここにきたのだ」
「俺は、お前たちを救うためにここに来たのだ」
「……救う」
「そうだ」
その瞬間、楓は犬が笑ったような気がした。
「――お前はおかしな男だな」
「よく言われる」
「いいだろう。ならばそれをじかに俺に示せ。もし、お前の言葉に嘘がないというのであれば、俺にも考えがある。どうだ」
「ああ、いいさ」
「では、俺についてこい――そこの女もだ」
「まて、この女は無関係だ。家に帰してやりたい」
「お前と離れて女一人で、闇が舞い降りたこの山を降りられると思っているのか」
初めて三蔵が厳しい顔をした。そして何かを見定めるかのように犬を見つめた。
不思議なことに楓の足の震えはいつの間にか収まっていた。心が鎮まり、頭が冴えていた。これから一体何が起ころうとしているのか全く理解できなかったが、自分の置かれた状況だけはよく分かった。楓は三蔵の背中に向かって言った。
「大丈夫、私もあなたと一緒に行く」
三蔵は楓の言葉を聞くと、にっと笑った。
「これも腐れ縁ってやつか。だけど安心しろ、お前のことだけはなんとしても守ってやる」
その言葉に楓はうんと頷いた。