アマチュア作家の面白い小説ブログ

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第十八話 金剛薩埵菩薩

 楓は銃声が響いた瞬間、これで自分も死ぬんだと感じ、そのまま意識を失っていた。いったい、どのくらい経ったのか判然としなかったが、胸の下で何かが動いているのを感じて、ふと目が覚めた。それは三蔵の心臓の鼓動だった。その鼓動は三蔵の体を通じて楓の体を震わせていた。楓は顔を上げると、泥にまみれた三蔵の顔を拭った。三蔵の顔は青白く血が遠のいてたが、かすかに息をしていた。それを見た楓はにっこりと笑い、血が噴き出しているところに手を当てた。すると楓の手から光が溢れ出した。その光はいつの間にか楓と三蔵を包みこんでいた。

 三蔵は、いろいろな声が自分を呼んでいるのをずっと感じていた。父の声、スサノオの声、この天地にある無数の名もなきものの声、そして、もう一つの声が自分を呼んでいた。楓が自分を呼んでいた。それは確かに楓の声なのだが、その声は慈愛に満ちて、まるで自分の母の声のようでもあった。その声が自分に語っていた。

――三蔵、決して、あなたを死なせはしない――

 三蔵は、自分の中に不思議な力が流れてくるのを感じた。それは今まで感じたことがない力だった。その力はとても暖かく、とても穏やかであった。はるか昔に同じような感覚を味わったような気がした。その暖かく、穏やかな力は自分の中にあったもう一つの強靭な力と交じり合った。力同士が睦みあった。力と力が溶けあった。それは言葉では到底言い表すことのできない悦楽の境地であった。恍惚たる至福の境地を味わう中で、三蔵は三千世界を悉く眺めた、命のありようをみた、宇宙の果てに輝く遥かなる光をみた。その光こそは三蔵が生涯を賭けて掴もうと願っていたものだった。

 凄まじい光が三蔵から吹き出した。暗闇に包まれていた森は、一瞬のうちに白く透明な世界に変わった。スサノオはあまりに強烈な光の中で、なんとか目をこらして、それを見ようとした。三蔵が立っていた。しかし三蔵の姿は様々なものに刻々と変化していった。男、女、子供、老人、虫、魚、犬、猫、猪、熊、鬼、悪鬼、羅刹、そして最後に現れたものを見た時、スサノオは言葉を失った。そして光が全てを覆いつくした。

 鬼島は突然、夥しい光の中にいるのを感じた。目の前に一人の男が立っていた。それは確かに、あの三蔵に違いないのだが、なにか別なもののように見えた。

 

金剛薩埵菩薩

 

「……貴様、誰だ」

「私は、青龍寺住職、三蔵」

 三蔵は、そういうと穏やかな笑みを浮かべた。鬼島はその顔をみて、少したじろいだが、自分を奮い立たせるように三蔵を睨みつけた。

「とうに死んだと思っていたが、まだ生きておったかよ。だが死んだ方が良かったと思うことになるぞ」

 三蔵は、鬼島の脅しなど毛ほどにも感じていないように一歩前に進むと軽やかに言った。

「鬼島よ、まずは私と話をしてみぬか。お前はなぜにこの世を憎むのだ」

「ふん、俺に説法をしようと言うのか——まあいいだろう、仏者面して、この世の理も知らぬで死んでは鬼どもに嗤われようからな——では言ってやる。人間などと言うものはな、誰でも心に鬼を潜ませているのだ。どいつもこいつも、所詮、己のことしか考えておらんのだ。どんなに善人ずらした奴でも心に悪を忍ばせている。悪事をなすなさぬかは、善悪の強さではない、きっかけが目の前にあるかないかだけに過ぎんのだ。見ろ、この人の世を!」

 鬼島が語るや二人の周りには、人の世の姿が絵巻物のように繰り広げられた。

 クラスの誰からも存在を無視され、頭を上げることもできず一人孤独に席に座る女子生徒、愛する夫が知らない女と親し気にホテルに入っていくのを呆然とした表情で見つめる妻、上司から人間性すら否定するような罵詈雑言を浴びせられながら、ひたすらうつむくサラリーマン、認知症の入所者に対して憂さをはらすためだけに暴力をふるう施設職員、ギャンブルに狂いなけなしの金を妻から取り上げる夫、お腹がすいて泣き叫ぶ赤子を放置し、夜の街に繰り出そうとする若い母……

「みろ、こいつらを。これが人の本性だ。これがこの世の実相だ。しかもだ、被害者も加害者も関係ねえ、きっかけさえあれば、こいつらはすぐにも立場は逆転だ——見ろ、この女子生徒、中学の時、あれだけいじめられていたのに、高校にあがるや今度はいじめる側に回っているぞ! 見ろ、この満足そうな面を、この残忍な面をよ! どいつもこいつも上辺だけは綺麗に着飾っているが、やってることは俺と大して変わりがねえ。そんな奴らがこの世にはうようよしてやがる。そんな世界になんの正義がある。逆にこの糞だめみてえな世界をぶっ壊そうとしている俺の方が、よっぽどまともだとは思わんか。俺がおかしいんじゃねえ、人の世こそがおかしいんだ!」

 

 三蔵は、鬼島の言うことを黙って聞いていた。そして口を開いた。

「人の心には鬼が棲んでいる。それはお前の言うとおりのことだ。怒り、傷つけ、盗み、犯し、殺す。人の心に巣くった鬼同士がいがみ合い、牙をむいて争い合う。それがこの世の実相であり、それもお前の言うとおりのことである」

 鬼島が凄まじい笑みを浮かべた。

「だから言ったろうが! 人を救うだの、憐れむだの、仏の慈悲にすがれだの、貴様のいうたわ言がどんなにくだらないかようやく悟ったか!」

「鬼島よ、確かに人は悪心をもつ。だが悪心をもったからと言って、人が仏に至る道は閉ざされてはいないのだ――それはなぜか、それは、人の中には鬼だけでなく、仏もいるからだ。身を犠牲にして、ひたすら我が子のために尽くさんとするものがいる、我が身を顧みず、愛するもののために命を捨てんとするものがいる、幸せな世をつくるために死を賭して戦い続けるものがいる。見なさい、さきほどの女子生徒が心の奥底で涙している姿を、悪事をなす己の浅ましさに涙している哀れな姿を。人はみな、悲惨な六道の世に生きざるをえない人の哀れさを心に思っているのだ——だからこそ、私は人を救いたいと願うのだ、人だけではない、獣や草木であっても、仏性を宿したものを愛し、ともに生きんと願うのだ」

 三蔵はさらにもう一歩前に出た。

「ところがお前は、仏に至る道を自ら投げ捨てた。悪事をなす人の心の哀れさに思いを致さず、悪に溺れ、悪に酔い痴れた。六道に生きる人々の悲しみを嘲笑い、仏の道をなさんとする大切な命を.踏みにじった。鬼島よ、お前が仏に至る道は絶たれた。お前は未来永劫、仏の住まう世界にはたどり着けず、地獄の火に焼かれることになる。これは仏の御心であり、仏が私に授けられた権威により、お前に命じる裁きの一切である」

 三蔵が高らかにそう告げると、三蔵の背から光が溢れ、縦横に輝き渡った。

「……仏の御心だと、ならば仏などいらぬ。この世は修羅、この世は地獄! 俺こそがこの世の法だ! 俺の力こそこの世を支配する唯一の力だ! 力こそがすべて。力あるものが勝ち、力あるものが正しい、ただ、それだけのことだ!」

 鬼島もまた憎悪に燃えた。叫べば叫ぶほど、鬼島の姿は大きくなり悪鬼羅刹へと変化していった。牙が生え、角が生え、肌は黒く変わっていき、どす黒い炎が鬼島の上にゆらゆらと立ち上がった。

「……力が漲ってくる……これが俺の真の力だ……仏など俺が叩き潰してやる……仏の作った世界など糞くらえだ!」

 鬼島はそう叫ぶと巨大な斧を振り上げ、三蔵の頭めがけて渾身の力で振り下ろした。

 斧は完全に三蔵を断ち割った、そのはずだった。ところがその斧は三蔵の頭に触れるや否や一瞬にして消滅した。そして斧を持つ鬼島の両手がめらめらと燃え始めた。

「なんだ、これは……俺の手が燃える……熱い……熱い……」

「あああ、熱い……手が燃える」

 その炎は、鬼島の手から体全体に広がっていった。

「うわわわあああ、頭が焼ける……舌がやける……目が焼ける……熱い……熱い」

「……熱い……体の中まで燃えている……熱い……熱い……頼む……なんとかしてくれ!」

「……お前は坊主だろう! ……俺を救え、俺を助けてくれ!」

 紅蓮の炎は、鬼島の髪、目、鼻、口、耳、腕、肩、指、爪、腹、膝、足、鬼島の一物も残すところなく焼き尽くしたが、不思議なことに、燃え尽きたはずの髪は再び伸び、べろりと溶けた肌の下から新たな肌が生まれ、溶け落ちたはずの腸がふたたび体内で動き始めた。そして、炎はいつ果てることもなく、鬼島の体を焼き続けた。

「……熱い……助けてくれ……」鬼島はがっくりと膝を落とすと、三蔵の裾にすがった。

 三蔵はその様子を眺めていたが、寂しげに呟いた。

「鬼島よ、お前を救いたくても、私にはお前を救うことができないのだよ。お前を焼いているのは仏でもなければ私でもない。お前自身がお前を焼いているのだ」

「……俺が……俺を焼いている……」

「そうだ——人は自らの身に生じた悪因悪果を自らの手で焼き尽くよう定められているのだよ。お前がお前を焼いているのだ。お前の魂がお前の心に巣くった悪心を焼いているのだよ。それこそが因果応報の理であり、六道世界を輪廻する人に定められた宿業なのだ」

「ああああああああああ……熱い……熱い……ならば……ならば、俺を殺してくれ……こんな拷問はたくさんだ……俺を殺せ……殺してくれ……」

「命は決してなくなることはないのだよ。命はその形を変えて、未来永劫、あり続ける……鬼島よ、お前は未来永劫、命を焼かれ続けるのだ」

「……俺は、こうやって未来永劫苦しむというのか……なんの救いもないというのか……そんな殺生な……助けてくれ……俺を許してくれ……頼む……許してくれ……」

 炎に包まれた鬼島は哀れな声を上げて地面に倒れ伏した。

「……鬼島よ、救いが欲しいか」

「……頼む……お願いだ……たのむ……おれを……すくってくれ……」

「ならば、自分がなした非道な悪業を思い起こし、さらに自分を焼け。自分の悪心を悉く焼き尽せ! もしお前の心に一かけらの善心があれば、いつかお前の悪心が焼き尽くされたとき、お前は再びこの六道世界に戻ってこよう。そしていつか、お前のようなものにも救いの手を差し伸べ、浄土に誘ってくれる仏が現れるかもしれない。お前に救いをもたらす仏が現れることをひたすら念じ、仏の慈悲にひたすらすがるのだ。さすれば永劫の彼方の果てに、お前の救いの道が見えるかもしれぬ」

「………………ああ……おれにも……すくいの……みちが……あるのか…………」

「鬼島よ、それをただ一つの希望として己がなした悪業の報いを受け止めるのだ」

「…………きぼう、か…………」

 鬼島は最後にそう言うと、ゆっくりと大地に沈んでいった。三蔵はその様子を寂しげにみつめていた。

 

 いつしか森には静寂が戻り、いつものように夜の闇に覆われていた。楓は自分の前に三蔵が立っているのにはっと気づいた。三蔵の体は薄く光っていたが、法衣を羽織ったいつもの三蔵だった。不思議なことに胸の傷はいつの間にか癒えて、顔や体中にあった傷や痣もすっかり消えていた。

「……三蔵」

 楓は小さな声で呼びかけた。三蔵はその声に答えるように後ろを振り返って、にっこり微笑んだ。楓は三蔵に抱きついていた。涙が溢れた。もう我慢できなかった。楓は三蔵の胸で大声で泣いた。三蔵はそんな楓を優しくずっと抱きしめていた。

 

 スサノオと阿弖流為あてるいは、そんな二人を遠くから眺めていた。

「――スサノオよ、あれを見たか」阿弖流為がつぶやいた。

「……ああ」

「お前は、こうなることを知っていたのか」

「……いや……おそらく、あいつ自身ですら、思ってもいなかっただろうさ」

「しかしまさか、金剛薩埵菩薩こんごうさったぼさつが降臨されるとは……」

「阿弖流為よ、三蔵だけではないぞ。あの楓という女の中にも新たな仏の力が生まれ出でんとしている——全くあの二人には驚かされることばかりだ」スサノオがふふと笑った。

 阿弖流為はしばらく三蔵と楓を見つめていたが意を決したようにスサノオを見た。

「スサノオよ、お前があの男に命を懸けた理由、よく分かった——さあ、約束だ。俺の首を取ってあやつに差し出せ」

「阿弖流為よ、三蔵はお前の首などいらぬと言うだろうさ」

 スサノオはそう言うと、阿弖流為の顔を見つめた。

「――どうだ阿弖流為よ、かつてのように俺と共に戦わぬか。三蔵の願いのために力を尽くしてみぬか」

 阿弖流為もスサノオを見つめた。かつて共に朝廷軍と戦った戦友、何度も死線をくぐりぬけてきたかけがえのない友。阿弖流為はスサノオの昔といささかも変わらぬ熱い目を見て、ふっと笑った。

「……俺の命はすでにお前たちのものだ。お前たちがそれを望むのなら、俺に否やはない。俺の命、どうとなり使うがよい……だがスサノオよ、お前も分かっていようが大地の下で蠢く混沌の力はもはや抑えきれんところまで高まっている。このままいけば遠からぬうちに、この世界は滅びる……」阿弖流為はそう言うと押し黙った。

 スサノオは大声で泣く楓をあやすように抱きしめている三蔵を見ながら小さく呟いた。

「……ああ、分かっている……分かっているさ……俺たちがいずれ仏をも敵としなければならないことは……」

 いつの間にか、東の空が白々とあけていた。長く辛い夜はようやく終わった。だがそれは、より長く、より厳しい戦いの始まりに過ぎなかった。

 

 鎮魂の唄 ~金剛薩埵編~ 了

 

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 ※ この物語はこの後もまだまだ続きますが、諸事情により明日からは別の作品の投稿を始めさせていただきます。これまでお読みいただいた方々には大変ご迷惑をおかけしますが、何卒ご容赦願います。なお、第二部 ~国津神編~ の再開は10月頃を予定しております。

 

 

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