はじめに
この作品は、カクヨムで書いた初めての長編作品です。
仏教をテーマにした作品ですが、中身は和風ファンタジー調の作品となっていますので、お気楽にお読みいただければと思います。
この物語は、この後もまだまだ続きます。第三部 ~国津神編~ の再開は3月頃を予定しております。
本編
プロローグ
須弥山の頂上の、そのまたはるか彼方の上空に位置する兜率天では、弥勒菩薩が五十六億七千万年の後に仏として地上世界に降り立ち、善者も、悪者も、獣も魚も、命ある全てのものを等しく救い給うためにはいかにすべきかと、今日も頬に軽く手を当てて、ひたすら瞑想にふけっていた。
兜率天では数多くの諸天や菩薩が弥勒菩薩とともにひたすら修行に励んでいたが、釈迦如来がご自身の後継者として後事を託された弥勒菩薩の深い思索を妨げようなどと思う不届き物は一人もおらず、天上で妙なる音色を奏でている迦陵頻伽も敢えては傍に近寄らず、弥勒菩薩の周りはいつも静寂に包まれ、ふくよかな香りに満たされ、清らかな空気が流れていた。
ところが今日、長いこと使う機会もなかった弥勒菩薩の耳に、誰かが近づいてくる足音が聞こえてきた。その足音も羽のようにひたすら軽く、誰か徳の高い菩薩の一人が近づいてくるのだと悟った弥勒菩薩は、頬から手を放すと顔を上げて目を薄っすらと開いた。すると、目の前には菩薩の中でも智慧第一とされる文殊菩薩が申し訳なさそうに立っていた。
第一部 金剛薩埵編
第一話 青龍寺
「あんなボロ寺にいったい誰が来るっていうんだろう……」
楓は独り言を言いながら、草ぼうぼうに生い茂った参道を恐る恐る登っていった。両脇には巨大な杉が立ち並び、辺りは鬱蒼として物音一つしなかった。
ほんとだったら絶対に来たくない場所だった。女の幽霊が出るとか、人魂が出るとか言われているのだが本当に出るのだ。
お盆にクラスの男女数人で夜中に集まり、ここで肝試しをしたことがあった。楓は連れの男とびくびくしながらこの道を歩いていた。すると急にひんやりとした風が後ろから吹いてきた。楓が恐々と振り向くと、真っ暗な木立の中に白い光が浮かび上がり、小さな子供のような形となってこちらに近づいてきた。しかもその白い影は一つだけではなく至る所から現れて、一斉にこちらに近づいてきたものだから、楓はぎゃっと悲鳴をあげたかと思うと、連れの男に声を掛けることも忘れて、そのまま家に逃げ帰ってしまった。
第二話 怪異
陽の光が杉木立の中を木漏れ日となって降り注ぐ中、二人は一言も言葉を交わさず黙々と参道を下っていったが、ほんの十分もたたないうちに小楢家に到着した。
楓は中に向かって、連れてきたよと大きな声をあげた。その声が消えぬ間もなく、父の大吾がどしどしと廊下を走ってきて玄関口に現れた。そして楓の後ろに控えている三蔵をみるなり、
「いや、わざわざこちらに来ていただくとは、なんとも申し訳ありません」と三蔵が娘の楓とさほど変わらぬ年恰好なのを少しも気にする風もなく至極丁寧に頭を下げた。
三蔵もさきほどまでの楓に対する横柄な態度とは大違いの体で、
「すぐさま、こちらにお伺いすべきところを大変失礼いたしました。また若輩の身に対して、かくも丁重なご挨拶、誠に痛み入ります」と深く頭を垂れた。
第三話 蝦夷の地
楓と三蔵は寺の縁側に座って庭を眺めていた。日はすっかり落ちて宵闇が迫っていたが、楓は帰ろうとしなかった。信じられない体験をし、信じがたいことを聞いて、楓の頭はひどく混乱していた。でもなぜか、三蔵が嘘を言っているとは思えなかった。逆に三蔵が言った言葉の意味をもっと知りたいと思った。三蔵は柱に寄りかかり、しばらく黙って草ぼうぼうの庭を眺めていたが、そんな楓の心中を察したのか、ぽつぽつと語り始めた。
「――古来、ここら辺一帯は蝦夷と呼ばれ、大和の神々に滅ぼされた国津神の一族が眠る墓所であった。つまり蝦夷に住まうものたちの想いと恨みの念が凝縮されている地なのだ。さらに言えばこの地は東北の地を縦断する龍脈が走り、その力が噴き出すところでもある。いわば龍の顎ともいうべき地。だからこそ、お山は古くからここに寺を建立し、最も呪術に長けたものを代々この地に派遣し、この地の抑えとしてきたのだ」
第四話 晋山式
数日の後、青龍寺では三蔵が新しい住職として就任するための晋山式が行われた。大吾を始め檀家連が一堂に揃い、儀式は厳かに行われたが、儀式の後は広間で三蔵を囲んでの祝いの席となった。
役員たちは三蔵の前に集まり、まずは一杯と三蔵に酒を注いでいたが、この三蔵という男、酒はなかなかいける口と見えて、最初は謙虚にお猪口で酒を受けていたが、お猪口ではまったく足りないとばかりに茶わんを手に取って、ぐいぐい酒を飲みだすものだから、役員たちも大喜びで、次は俺、次は私だと、三蔵の前に大きな輪ができて、大いに浮かれ騒いでいた。
一方、広間の隣の庫裏では、女性たちがさながら戦場のように駆け回り立ち働いていた。その中でまだ若いにも関わらず、てきぱきと手際よく動き回っていたのが楓だった。
楓は中学一年のときに母を亡くし、それ以来、小楢家の家事の一切を切り盛りし、酒好きな父の相手をしてきたこともあり、こうした男どもの扱いも手慣れたもので、そんなことだから、心中さぞかし気力に充ちているだろうと思いきや、実は不平たらたらだった。
第五話 巨大な白犬
空が茜色に染まるころ、庫裡では片付けを終えた女たちが帰り支度を始めていた。既に男たちはみな千鳥足で帰ってしまい、寺は昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
楓も身支度を済ませ帰ろうとしたが、浴びるように酒を飲んでいた三蔵の様子が気になったので広間の方に行ってみることにした。楓が広間を覗くと、柱に寄りかかりながら相変わらず茶わん酒をちびりちびりと飲んでいる三蔵の姿が見えた。既に二升か三升は飲んでいるはずなのに、ほんのりと赤みがさしたくらいで、三蔵の顔はあいかわらず陶器のように透き通った白い肌をしていた。
「まだ飲んでるの。よく飽きないわね」楓は三蔵に近づきながら、飽きれたように言った。
「――こんな景色を見ながら酒を飲めるだけで、ここに来た甲斐があるってもんだ」三蔵は庭を見ながらつぶやいた。
第六話 人を殺す獣
鬱蒼と生い茂る森の中を歩いていた。三蔵と楓の前を巨大な犬がのっそりのっそり歩いていた。森は薄暗くて何も見えなかったが、あちらこちらにぼんやりと白い魂が浮いたり消えたりしていた。
三蔵と楓は横並びに歩いていた。三蔵は楓の手をしっかりと握っていた。楓は少し手が痛かったがうれしかった。なんの根拠もないのは分かってはいるのだが、楓はこの三蔵という男がいざとなったら絶対に自分を守ってくれるだろうと確信していた。なぜだか、体のどこかからかそんな思いが湧き上がってくるのだった。なぜだろう、なぜなんだろう。自分でも不思議だった。でも今はそれで十分だった。
第七話 金剛力
光は消え去り、周囲は暗闇の世界に戻っていた。いつの間には大熊は消え失せ、三蔵が右腕を抱え込むようにしてしゃがみこんでいた。楓は三蔵めがけて走っていった。
「大丈夫! 怪我はない?」
三蔵の脇に駆け寄った楓は心配そうに声を掛けたが、三蔵の右腕を見た途端絶句した。腕は血だらけで肉の間から骨が覗いていた。三蔵は腕を抑えて、必死に痛みに耐えていた。楓はあまりのことに体を強張らせたが、それはほんの一瞬のことだった。すぐさま着ていたブラウスを脱ぎ捨てると歯でそれを切り裂いて血がどくどくと流れ出る三蔵の右腕の上部に巻きつけてきつく縛った。そして残りの生地を沢の水に浸して傷口にそっとあてた。三蔵は痛みに顔をしかめたが楓の方を向くと、
第八話 スサノオ
翌日、楓は学校から帰ると荷物を放り投げ、すぐに清龍寺に走っていった。三蔵はどこやらへ出かけたらしく不在だったが、あの巨大なスサノオと名乗る白い犬が庭の隅で昼寝をしていた。楓は恐る恐るスサノオの方に近づいていった。
「……スサノオさん」楓は蚊の鳴くような声でスサノオに声を掛けたが、スサノオはぴくりともしない。
「……ねえ、スサノオさん」今度は少し大きな声で声を掛けた。スサノオは耳をぴくりと動かしたが、相変らず目を瞑ったままだった。
第九話 楓と優香
「ねえ楓、今度清龍寺に来た住職さんって、すごいイケメンなんでしょう」
びっくりして顔をあげると机の前に同級生の優香が目を輝かせて立っていた。
「えっ……なんでそんなこと知ってるの?」楓が少しうろたえ気味に答えると、優香がさらに身を乗り出してきた。
「やっぱりイケメンなんだ! なんで私に黙ってたのよ。さては、狙ってるんでしょう」
第十話 淫乱
相変わらずボロ家同然の青龍寺であったが、先日行われた晋山式の前にだいぶ庭の手入れや傷んだ箇所の修繕をしたので、なんとか人が住めるような環境になっていた。
スサノオがいるはずだったが今日はどこかに行ったと見えて姿が見えなかった。まあ、あんなでかい犬が突然しゃべり始めたら優香が気絶するかもしれないと思ったので楓は少しほっとした。
楓はいつもの勝手口から中に入ると、三蔵さんと大声で叫んだ。すると中から、勝手に入ってこいという三蔵の声が聞こえてきた。楓と優香は土間で靴を脱ぐと広間の方に向かっていったが、そこにはいつものごとくに柱に寄りかかりながら酒を飲んでいる三蔵がいた。
「どうした。今日は友達も一緒か」三蔵はこちらを振り向くこともなく言った。
楓は優香を紹介しようとしたが、当の優香はそんなことはお構いなしに三蔵の前にすたすたと歩いていき、大きく開いた胸の谷間を見せつけるように、
第十一話 鳴動
「今の地震じゃない?」学校からの帰り道、優香が言った。
「結構、大きくない……」楓は優香の手を掴んで、不安そうに周りを眺めた。
「楓、怖がりすぎだって」優香が笑いながら言った。
「だって、このところずっとだよ。ほら、ここら辺って、十年おきに大きい地震が来るっていうじゃない。前の地震が起こってからそろそろ十年だし、なんか怖いよ」
第十二話 殺人鬼
冷たい風が吹いていた。麓はまだ紅葉が色づいていたが、山の上では木々はすっかり葉を落とし冬支度を始めていた。そんな枯れ木が生い茂る最奥の森の中を一人の男が歩いていた。この男は東京で幼女を誘拐して凌辱した後、バラバラに切断して親元に送るという凶悪な事件を起こし、現在警察から指名手配されている男だった。なんとかここまで逃げおおせてきたが、ガソリンも金もつきて逃げこむように山に入っていったのだった。
空気は凍えるようで、男は両手で全身をさすりながら歩いていた。男の実家はこの山の向こうにあった。おそらく実家にも捜査の手が伸びているだろうが、もはや男にはそこ以外に行くところがなかった。
男は重い足を引きづりながら山を登っていた。夕日が落ちると一気に暗くなった。一切の明かりがない山奥の暗闇というものがどんなものか想像できるだろうか。
第十三話 小さな種
「ほら、三蔵の好きな鰹だよ。今日、魚屋さんに行ったら、すごくいきのいいのがあったから、奮発して買ってきちゃった」楓はそう言うと、脂が乗った鰹の刺身がたっぷり盛られた大皿を三蔵の前に置いた。
「おい、親父さんの分も残しておかなくていいのか」三蔵は苦笑した。
第十四話 鬼神力
スサノオは古びた神社の前に立って、まるで社の内部を見透かすかのように厳しい目でじっと見つめていた。その神社はもはや人から捨てられたと見えて、草は伸び放題、柱は腐食して斜めに傾き、壁にはところどころ穴があいていた。
「――どんどん、力が弱まっている」スサノオは小さくつぶやいた。
この神社は、かつてこの国を支配した国津神が祀られているところであった。青龍寺の先代の住職である円仁和尚は、これらこの地に眠る大いなる力を鎮めるために建てられたいくつかの封地の守り手であり、その任は千年以上の長きに渡り、世代を超えて綿々と受け継がれてきたのだった。
第十五話 家族
「三蔵! 三蔵!」楓が大声で叫びながら、三蔵のいる広間に走ってきた。
「そんなに慌てるな、一体なんの用事だ」三蔵が落ち着けとばかりに言った。
「なんだか、この近くに指名手配されている殺人犯がうろついているみたいなの! 今朝、警察から家に電話があって、ひと山超えた山道にそいつが乗り捨てた車がみつかったって言うの。だから決して一人では出歩かないでって――それで、急に三蔵のことが心配になって、飛んできたの」
第十六話 凌辱
楓の目の前には、さきほどまで笑いあっていた大吾が眠ったように地面に横たわっていた。心臓のあたりから血がどくどくと噴き出て周囲に広がっていた。
楓は自分が何を見ているのか理解できなかった。ただ父のそばにいきたい、それだけが頭にあり、ふらふらと大吾の側に近寄ると倒れこむようにしゃがみこんだ。震える手で大吾の頬を摩った、瞼を摩った、唇を摩った。しかし大吾は微笑んでくれなかった、楓と呼んではくれなかった。大吾の身体から急速に血液が失われ、大吾の命は失われかけていた。
何も考えられなかった。ついさっきまであんなに幸せだったのに、これからは私がお父さんを守るからと母に誓ったばかりなのに——いろいろな思い出が走馬灯のように頭を駆け巡った。大きい背中でおんぶをしてくれたお父さん、手をつないで毎日のように散歩に連れて行ってくれたお父さん、お母さんを亡くした夜、一人仏壇の前で泣いていたお父さん、
第十七話 悪鬼羅刹
「ばかが! 誰が修法比べなどに付き合うなんて言ったよ」鬼島はうすら笑いを浮かべて、三蔵に近づいた。そして血を流して倒れている三蔵を容赦なく蹴りつけ始めた。
「なにが、救いはないだ! なにが、未来永劫、苦しむだ!」
「えらそうに説教たれた癖に、たった一発であの世行きかよ!」
第十八話 金剛薩埵菩薩
楓は銃声が響いた瞬間、これで自分も死ぬんだと感じ、そのまま意識を失っていた。いったい、どのくらい経ったのか判然としなかったが、胸の下で何かが動いているのを感じて、ふと目が覚めた。それは三蔵の心臓の鼓動だった。その鼓動は三蔵の体を通じて楓の体を震わせていた。楓は顔を上げると、泥にまみれた三蔵の顔を拭った。三蔵の顔は青白く血が遠のいてたが、かすかに息をしていた。それを見た楓はにっこりと笑い、血が噴き出しているところに手を当てた。すると楓の手から光が溢れ出した。その光はいつの間にか楓と三蔵を包みこんでいた。
三蔵は、いろいろな声が自分を呼んでいるのをずっと感じていた。父の声、スサノオの声、この天地にある無数の名もなきものの声、そして、もう一つの声が自分を呼んでいた。楓が自分を呼んでいた。それは確かに楓の声なのだが、その声は慈愛に満ちて、まるで自分の母の声のようでもあった。その声が自分に語っていた。
第二部 国津神編
第一話 本山よりの使者
「梱包し終わった箱はどんどんお寺の方に運んでいいよ!」
第二話 荒れた祠
山道を男が二人歩いていた。
第三話 荒覇吐
至極当たり前のことだが寺の朝は早い。そのことを楓が思い知ったのは、引っ越し翌日の朝のことだった。遠くの方から何か唄のようなものが聞こえてきた。一定のリズムの中、抑揚をつけたその韻律はまだ寝ぼけ眼の楓の体の中に浸透していき、あまりの心地よさに思わず、とろんと眼をつぶりかけたが、その音に子供の少し高い声が混じっているのに気づいた楓ははっと目を覚ました。楓は急いで着替えると廊下に飛び出した。本堂の方からは朝の勤行に励む三蔵と制托迦の声が響いていた。楓は自分も負けてられないとばかりに腕まくりして、庫裏の方に向かっていった。
第四話 疑惑
その日の午後、青龍寺からほど近いある農家で男の変死体が二つ発見された。どちらの死体も首が丸ごと無くなっており、小さな村に起こった怪事件として大騒ぎになっていた。
第五話 カリマ
制托迦は祠を囲むように四方に白木を立て注連縄を張り、祠の前に敷物を敷き、その上に護摩を炊く炉を置いて、そこに座った。本山では兄弟子たちの後ろに並び、何度も行ってきた修法であったが、自分一人で行うのはこれが初めてだった。制托迦は大きく息を吸い、さらに大きく息を吐いて心を整えると炉に火を灯した。その灯は真っ暗な森の中で怪しく光り、辺りをぼんやりと照らした。その灯を見つめながら両手を不動明王印に組み合わせ、静かに真言を唱え始めた。
第六話 制托迦
青龍寺に戻った三人を見て楓は息をのんだ。だが楓もあの死線をくぐりぬけてきた女だった。何事かと三蔵に問いただすこともなく、すぐに二人の怪我の状況を看て血止めの応急処置をすると、制托迦には寝床を敷き、スサノオには土間に毛布を敷いて、そこに休ませた。 二人とも疲れが出たのか、あっという間に眠りに落ちていた。
第七話 戦いの前夜
新月を明日に控えた夜、広間に三蔵たちが集まっていた。三蔵、楓、制托迦、庭にはスサノオの姿もあった。みな一言もなく思い思いに座っていたが、どの顔も気迫に満ちて、その面構えをみただけでも、彼らの決意が伺えた。三蔵がすくと立った。そして縁側の方に行き、空を眺めた。そこには晦日月が浮かんでいた。
「明日は、いよいよ新月」三蔵が静かに言った。
「このところずっと、荒覇吐の祠のある北東の方角から、天に向かって巨大な力が立ち上るのが見えていたが、今日はその力が噴き出さんばかりに囂々と吹き上がっている」
楓は三蔵に言われてその方向を眺めたが、確かに黒い煙のようなものが空に立ち上っているのがはっきりと見えた。
第八話 それぞれの覚悟
新月の夜、漆黒の闇に包まれた森の中で、わずかにぼんやりと光を放つ一画があった。 そこは荒覇吐を封じていた祠であった。荒覇吐を封じていた礎石は既になく、真っ二つに割れた台座石だけが寒々しく残っていた。その割れた台座石の隙間から黒い煙のようなものがゆらゆらと天に昇っていた。
第九話 阿鼻叫喚の戦場
その時はやってきた。北東の方角から急に闇が広がってきた。そして、奇怪な者どもの猛り狂うような叫び声が響いてきたと思ったら、ずしんずしんと何かものを叩くような振動が伝わってきた。国津神の軍勢が青龍寺に押し寄せていた。
青龍寺の周囲には強力な結界が張られており、人外のものは中に入るどころか、触れることすらできなかった。しかし鬼どもは、我が身のことなど些かも斟酌することなく、結界にぶつかっていった。
一瞬にして燃え上がってしまう妖、結界に触れたとたん手がどろどろに溶けている妖怪、全身が燃え上がる中、それでも結界に向けて突進していく鬼たち、その後ろにはカリマとアスラを従えた荒覇吐が大きな眼をさらに大きく見開いて、傲然と鎮座し、その様子をじっと見守っていた。
第十話 神々の戦い
三蔵は残った三面六臂の悪鬼の前に立った。
「お前の名は?」
「我が名はアスラ、貴様らの間では阿修羅と呼ばれるものだ」アスラは傲然と言った。
「俺の名は三蔵――悪いが容赦はせぬぞ。お前たちは恨みを晴らさんがためだけに、あえて仏の道に歯向かおうとしている。その心の奥に巣食った悪念を消滅させるためには、そこな鬼たちのごとく、心と肉体もろとも一度完全に滅せられなければならぬ。その先にこそ救いがあるのだ」
第十一話 致命
カリマは苛立っていた。目の前にいる阿弖流為と名乗る男。たかが人間と思って、たかを括っていたが、その剣の腕前は並々ならぬものがあった。自分の四本の手から繰り出される必殺の攻撃は悉くかわされ、それどころか時折鋭い突きを放って、この身をたじろがせた。
「――どうした、それで終わりか、では、今度はこちらの番だ!」
阿弖流為が叫び、その声と同時に雷光のように剣を振るい始めた。カリマはたじろぎ、なんとか四本の刀でかわそうとしたが、勢いに勝る阿弖流為の剣はカリマの左手の二本の刀を弾き飛ばした。すかさず阿弖流為はカリマの左を狙って剣を放った。カリマは反射的に素手となった左手で阿弖流為の剣を防ごうとしたが、鈍い音がしたかと思うとカリマの二本の腕が宙を舞った。カリマは苦痛に顔をゆがめ、残された右手で切断された左手の跡を抑えた。次の一撃でカリマに止めを刺せる。阿弖流為がそう思ったときだった。なにやら陣太鼓のような重々しい響きが耳に聞こえてきた。その音は鼓膜を震わせ、皮膚の毛をそそり立て、肉を通じて体内にまで伝わってきた。途端に阿弖流為の体が重くなった。
第十二話 悲しき者たち
眼の前に倒れ伏したスサノオを感慨深げに眺めていた荒覇吐だったが、突如、背後から強烈な殺気を感じた。かわそうとしたが剣の方が素早く、荒覇吐の背中を切った。背中から血が流れたが意に介すこともなく傲然と向き直った。そして前に立っている男を睨みつけた。
第十三話 最後の頼み
楓は少しの間、アスラを眺めていたが、はっと気づくと外に駆けだした。楓が本堂の縁側に立つと、アスラより巨大な鬼が阿弖流為と剣を交え、一進一退の攻防を繰り広げていた。だが楓の目は瞬時に別なものに注がれた。三蔵が大地に倒れていた。楓は三蔵のもとに駆けよった。三蔵の胸から大量の血が流れていた。三蔵の顔は血の気を失い、陶器のように真っ白になっていた。
第十四話 制托迦の戦い
その頃、青龍寺では阿弖流為と荒覇吐の熾烈な戦いが繰り広げられていた。荒覇吐が斧を振り下ろしたかと思うと、阿弖流為はそれをぎりぎりでかわし、逆に鋭い突きを繰り出した。
いつ果てるとも知れない壮絶な戦いであったが、剣を交えてから四半刻が過ぎ、次第に阿弖流為が押され始めていた。阿弖流為は既に何百という鬼と対峙し、鬼神のごときカリマを倒し、神にも伍するアスラに骨まで達するような傷を負いながらも二本の腕を切り落とした。いくら鬼神力を備えた阿弖流為といえどもその疲労は限界に達していた。逆に荒覇吐はいささかも疲労を知らぬかのように、その重々しい斧を軽々と振り回し、ますます勢いを増していた。
第十五話 不動明王
制托迦は身動き一つできなかった。不動明王は既に消え失せ、制托迦一人が地面に横たわっていた。素戔嗚は傲然たる顔をして、制托迦の前に立っていた。
第十六話 祈り
素戔嗚の足元には意識を失った制托迦が倒れていた。素戔嗚の太い足をもってすれば、その頭を粉々に踏み砕くことは容易であった。だがしばらく、素戔嗚は固まったように動かなった。そして何を思ったか、素戔嗚は膝をついて制托迦を抱きかかえた。そして後ろに控えている荒覇吐に声を掛けた。
第十七話 仏の意志
須弥山の頂で、一人泰然として三昧の境地を味わっておられた如来であったが、常に側を離れぬ金剛薩埵菩薩が何やら決意の面持ちで、自身に話しかける機会を伺っているのに気づき、軽く目を開けた。
「いかがした金剛薩埵よ、何か私に話があるようだが」如来が軽やかにお声を掛けた。
読者さまからいただいたコメント
ここからは、これをカクヨムで投稿した時にいただいた読者様からのたくさんのレビューやコメントの一部を紹介させていただきます。
感動です。号泣です。★を100個くらい付けたいくらいなのに無理みたいです…カクヨムさんケチです。執筆ありがとうございます。何度読み返しても涙が出ます。どないすんねん、アラサー女子泣かしてからに…(爆)(Aさん)
なんと荘厳な……。圧倒される思いで文字をひたすらに追っておりました。言葉になりません。皆の祈りが届いたんですね(涙…ただ涙です)(Tさん)
あの……これ書籍化はいつですか?(混乱)言葉運びといい、情景の美しさといい、素晴らしいの一言です。三蔵、生き(息)返るって信じてたよ!!(Aさん)
はじめまして。ここまで一気に読みました。おもしろくて(笑)和風ファンタジーというか、密教ファンタジーという感じで壮大なお話しになりそうな気配がぷんぷんします。そういうの大好きです。昔のマンガ「孔雀王」を思い出しました。(Hさん)
遂に、読み終えてしまいました…。自分へのご褒美みたいに、少しずつ読み進めてきた物語。面白かったです。次はどんな展開が待っているのか。これだけの濃厚な物語、書くのはさぞや、時間も気力も必要なことと思います。一人の読者として、続きを待ってます。(Pさん)
怒りに震えたり、涙したり……ここまで一気に拝読です。三蔵から三蔵様と呼んでいました。感動しました。この作品、映像化して欲しいです。KADOKAWAさんの好みだと思いますが(^^)(Hさん)
金剛薩埵編の完結おめでとうございます。なるほど、こういう結末になりましたか。自分を焼いているのは自分自身、それは本当にそうなのかもしれませんね。天は自ら助くるものを助く、という言葉もありますし、自分を滅ぼすのも救うのも結局は自分自身ということなのでしょうね。最後の仏も敵にという一文が気になります……。これほど重厚な和風現代ファンタジーの書き手さんはあまり見かけないので、本当に楽しませて頂きました。ぶんちくさんの作品を読んで「日本ってやっぱりいいよね!」と毎回思っていました。ウェブ小説というより、本当に大好きな商業作品を読むような気持ちで毎回読んでいました。苦しい中で書き抜かれたこと、本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。(Aさん)
あとがき
この作品は、カクヨムで書いた初めての長編作品で、連載の形で毎日一話づつ、投稿してました。
毎日書いて、毎日投稿する。
それは大変なことなんですが、あの時はまるで熱に浮かされたように、仕事以上の義務感をもって書いていました。
ただ、長編を連載形式で書いたことなどなかったので、本当に苦労したし、精神的に追い詰められたし、最後は書くことすら嫌になるほどでした。
そういう意味では、これを書き上げることができたのは、ただただ毎日読んで、コメントをくれる読者の方々がいたおかげだと思っています。
読者の存在が書き手にとってどれだけ大きいか、本当に身に染みたし、それをリアルに実感することができました。
改めて、本編を読み、読んでくださった方々のコメントを眺めていると、あの時の空気が蘇ってきます。
今回投稿したものは、カクヨムで書いたものを幾分手直ししておりますが、この作品の持つライブ感や熱量は損なわないようにしました。
最初にも書きましたが、この物語は、第二部~国津神編~、第三部~四天王編~と、まだまだ続いていきます。第二部~国津神編~では、新しいキャラクターも登場し、戦いもますます過酷になっていきます。
仏の力を求める物語、仏がもつ十全の力とはいったいなんなのか。そして、三蔵と楓の行く末は。
どうぞ、彼らの物語を暖かく見守ってやってください。
最後に、ここまでお読みくださった全ての方に篤く御礼申し上げます。