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第十五話 家族

「三蔵! 三蔵!」楓が大声で叫びながら、三蔵のいる広間に走ってきた。

「そんなに慌てるな、一体なんの用事だ」三蔵が落ち着けとばかりに言った。

「なんだか、この近くに指名手配されている殺人犯がうろついているみたいなの! 今朝、警察から家に電話があって、ひと山超えた山道にそいつが乗り捨てた車がみつかったって言うの。だから決して一人では出歩かないでって――それで、急に三蔵のことが心配になって、飛んできたの」

 その言葉を聞いた瞬間、三蔵は今まで見たことがないような怖い顔になって、楓を怒鳴りつけた。
「そんな危ないやつがうろついているのに、なんで一人でこんなところに来た! お前は自分がどんなに危険なことをしているのか分かっているのか!」

「……だって、わたし……三蔵のことが心配で……」

「俺のことなんか、どうだっていいんだ! それより万が一、お前の身に何かあったら、どうするんだ! お前の親父さんがどれほど悲しむか――お前はそんなことも分からないのか! お前の身は、お前だけのものじゃ……」三蔵は不意に黙った。楓の眼から涙がぽろぽろとあふれていた。

「……楓」三蔵は小さくつぶやくと肩を震わせて涙を堪えている楓の肩に両手を置いた。

「お前が俺のことを案じて、わざわざ知らせにきてくれて、本当にうれしい。だがこれだけは分かってくれ。そいつはとてつもなく危険な男だ――俺は昨日、そいつと会った。そいつは俺を殺そうとしている。だからお前はこれ以降、絶対にこの寺に近づいちゃだめだ」

 楓は三蔵の言葉を聞くと、驚いたように三蔵の顔を凝視した。
「……三蔵を殺しに……だったら、すぐに警察に話して、守ってもらわなくちゃ!」

「――いや、警察がここに来るのはまずい、やつは人の心を惑わすことができる。かえって危ない。それにやつはもはや人ではない、やつを倒せるのは俺しかいない」

「でも、三蔵にもしものことがあったら……」
 不安そうに三蔵を見つめる楓の瞳は涙で潤んでいた。三蔵は思わず楓を抱きしめた。三蔵が強く抱きしめれば抱きしめるほど、楓の心は切なく燃えた。三蔵は楓をきつく抱きしめ、小さく囁いた。

「……大丈夫、俺は絶対に死なない」

「……うん」楓はそうつぶやくと、三蔵の胸に頭を深くうずめた。

 

 しばらくの間青龍寺を留守にすると、楓を通じて警察や地域住民に伝えさせていたので、この数日、一人として青龍寺を訪れるものはおらず、毎日、寺はひっそりとして、静まり返っていたが、来るべき新月の夜に備え、三蔵は着々と準備を整えていた。

 楓と別れて以来、三蔵は一切の食を絶ち、精進潔斎に努めるとともに、寺の東西南北にはそれぞれ、降三世、大威徳、金剛夜叉、軍荼利の各明王を降臨させ、四方を守る守護となし、中央には、五大明王の中心である不動明王を呼び降ろす護摩壇を設置し、ただひたすら不動明王の真言を唱え続けていた。

 だが思い返しても、あの鬼島という男の法力はとてつもないものであった。あの力は単に鬼神力を授けられただけのものとはとても思えなかった。おそらくあの男の身体に既に鬼神力が備わっていたに違いなかった。
 鬼神力とは怒り、憎しみ、妬み、恨みという負のエネルギーの総称である。この力を持つものは、破壊の衝動に駆られ、尋常をはるかに超える膂力と呪力を備えることができた。また闇を支配する鬼の眼を持ち、人の心に潜む闇を自在に操ることができた。強力な鬼神力を備えたあの男を倒すためには三蔵の持てる力全てを引き出す必要があった。
 三蔵は心を無にして、不動明王と一体となることのみを念じ、この数日の間、ひたすら真言を唱え続けていた。もしその場を見るものがいたのなら、そのものは護摩壇の前で一心不乱に祈る三蔵ではなく、別なものを見たことだろう。そこにいたのは燃え盛る炎の中で悪を断ち切る剣と悪を縛り上げる羂索を持ち、大きく眼を見開き、牙をむきだした不動明王そのものであった。鬼島が指定した新月の夜を迎え、月は空から消え失せ青龍寺は漆黒の闇に包まれていた。しかしこの本堂だけは燃えるような金色の光に包まれていた。鬼島を迎え撃つ準備は完璧に整っていた。

 

護摩壇

 

 そのころ、楓の家では大吾と楓が台所で夕食をとっていた。大吾は、ずっと沈んだ顔をしてほとんど料理に箸もつけない楓を見ると、「楓、外で警察の皆さんが、ちゃんとこの家も守ってくれているんだから、そんなに心配することはないよ」と安心させるように言った。

 大吾の言葉どおり、未だに鬼島を発見できずにいる警察は、このあたり一帯に非常配備を敷いて、民家には警官を配置し、もしもの場合に備えていた。楓の家にも屈強な警察官が昼夜を問わず詰めており、今この時も目を光らせて、警護にあたってくれていた。

「……うん、それは気にしてないんだけど……」楓は歯切れ悪くつぶやいた。

「どうしたんだ、この間から、少し様子が変じゃないか?」大吾が心配そうに楓の顔を見た。

 確かにここ数日楓は明らかにふさぎ込んでいた。いつもなら、掃除、洗濯、食事の準備と、家の中を走り回り、快活に大吾に話しかけてくるはずなのに、このところ楓は部屋の中に閉じこもっているか、たまに縁側に出ても黙ってなんとも言えぬ表情で青龍寺の方を見上げるだけだった。

 いつまでたっても返事がないので、大吾は話題を変えるように話を振った。

「ところで、試験を受ける大学は決まったのかい」

 今まで沈んだ顔をしていた楓だったが、大吾の一言に急に面を上げた。

「――そうだ、父さん。話があるんだ」

「どうした?」

「私、大学にはいかない――私、専門学校に通って看護師になろうと思う。病気で苦しんでいる人を助けてあげたいんだ」

 楓はまっすぐに大吾を見つめて、力を込めて言った。大吾はそんな楓の顔をじっと見つめていたが、ふっと頬を緩めると、「しっかり考えて決めたんだな」と優しく言った。

「うん」

「じゃ、父さんは、もう何も言わない。お前の好きなように生きなさい」

 楓の顔に安堵と喜びがあふれた。楓は思わず大吾に抱き着いた。

「お父さん、ありがとう……」

「――ようやく、大事な娘の顔にいつもの笑顔が戻ったな」

 そう言って、大吾も楓をぐっと抱きしめた。

「……あんなに小さかったのに、いつの間に、こんなに大きくなったんだろうな……父さんは、どんなことがあっても、お前の味方だからな」

 父の言葉がうれしかった。いつの間にか高校三年生になって今では小楢家の家事一切を切り盛りしていたけれど、自分を抱きしめてくれる大吾は、いつも大きく暖かかった。

 お母さん、安心して、今度は私が父さんを守るからね。楓は心の中で呟いた。

「――楓、父さん、ちょっと夜風にあたってくるわ」

 大吾は急に立ち上がると、いそいそと外に出ていった。出際にちらっと大吾の顔を見て、眼が少し赤くなっているのに気づいた。楓の胸も熱くなり、眼の奥がじんと赤くなった。 ガラガラと戸が開いて、外にいる警官と楽し気に話しをしている大吾の声が聞こえた。楓は込み上げる涙を拭って、小さく笑った。

 その時だった。銃声があたりを切り裂いた。

 思わず楓は外に飛び出していた。警官が一人立っていた。その警官は拳銃を構えたまま、固まったようにじっと目の前の地面を見据えていた。その視線の先には胸から血を流す大吾が倒れていた。

 護摩壇で修法を行っていた三蔵の耳にもその銃声が聞こえた。

「しまった!」三蔵は、そう叫んだと思うと寺を飛び出していた。頼む、間に合ってくれ、三蔵はひたすら願った。

 

地面に倒れた男

 

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