リュウは丘の上に立つとマナハイムの街を振り返った。月明かりに照らされて教会の尖塔が見えた。その隣にはリュウがいた孤児院があった。思い出とよべるようなものはなかったが、それでも何年かの時を過ごした場所には違いなかった。
リュウには家族がいなかった。いや、家族の記憶がなかった。ある時、自分が孤児院で過ごしていることを不意に悟った。だが自分がどんな経緯でここにいるのか知りたいとも思わなかった。なぜなら、ここに住む子どもたちは誰一人として過去を語るものがいなかったからだった。誰もが心に闇を抱えていた。そういう子ども同士が一つ屋根の下に押し込まれればどんなことになるか。
すぐに生意気なやつだと目をつけられ、数人がかりで徹底的に痛めつけられた。それでもリュウは負けなかった。次の日には一人づつ殴り倒した。気に食わないことがあれば相手が年上だろうが自分より大きかろうがすぐに殴り掛かった。いつの間にか、リュウは孤児院の頂点に立っていた。リュウに歯向かうものはいなくなった。だが、リュウの心は満たされなかった。こんなごみ溜めのような場所で一番になったところで何の意味があろう。外に出れば野良犬以下の扱いを受けた。孤児院と同じように気に食わないことがあればすぐに喧嘩をふっかけたが、外の世界は容赦なかった。大人の力は孤児院の子どもらとは比べ物にならなかった。女たちからは辛辣な言葉を浴びせかけられ、街をうろうろしているだけで警官たちに容赦なく追い立てられた。金がなければ何ひとつ買うことができなかった。子どものリュウが太刀打ちできる世界ではなかった。
だからリュウは剣を覚えようとした。どんなものでも剣が強ければそれなりに認められた。みんなが道を譲った。だがもちろん師匠や道場に入れるような身分でもないし金もなかったから、リュウは木を削って、毎日毎日木刀を振った。リュウの相手は自然だった。風であり木であり蝶であり鳥であった。
ある時、熊に出くわした。熊は食べるものが無く、腹を空かせていたと見えて、リュウに襲い掛かってきた。自分より三倍はでかい熊が目の前で唸り声をあげているというのに、リュウの心は妙に落ち着いていた。弱ければ死ぬだけのこと。リュウの体に染みこんだその想いが、リュウの体から余計な力を抜いた。街の喧嘩と同じようにリュウは木刀を構え、一歩前に進んで熊を睨みつけた。引いたら負けだ。気持ちが負けたら絶対に勝てない。そのことを本能的に知っていた。熊は唸り声をあげつつも、容易に飛び掛かれないでいた。それを見たリュウはわざと視線を外し、木刀を下げた。その瞬間、熊は爪を立てた強烈な一撃をリュウに放った。しかしそれは空振りに終わった。紙一重で体をそらしたリュウは無防備になった頭に木刀を叩きつけた。頭蓋骨が陥没する音が聞こえた。熊が大きな音を立てて倒れた。リュウは熊を見下ろした。熊はぴくぴくと痙攣しながらも、哀願するようにリュウを見つめていた。リュウはもう一度大きく木刀を振り上げると、とどめを刺すかのように熊の頭に叩きつけた。熊はそのまま息絶えた。そんな日々が何年も続いた。いつかリュウの剣の業は飛ぶ蝶を捉え、蜻蛉を叩き落とすほどのものになっていた。
ちょうど半年前、国教会主催の剣技大会がマナハイムの街で開催されることになった。大会には誰でも参加することが可能だった。リュウは大会に参加することにした。そのことを告げると、孤児院のものたちは子どもらも職員も皆反対した。無様に負けるのが目に見えていたからだ。だがリュウは一人大会に赴いた。受付のものは、ぼろをまとったリュウを見て追い払おうとしたが、その身からほとばしる殺気のようなものに気圧されて、どうせ痛い目を見るだけだからと参加を許した。そこから先はリュウの独り舞台だった。どいつもこいつも形ばかりで、殺すための覚悟もない剣ばかりだった。リュウは全てを瞬刻のうちに打ち倒した。実際、リュウの剣の速さは尋常ではなかった。相手が構える間もなく、必殺の突きが相手の喉骨を砕いていた。こうしてリュウは見事優勝し、王の騎士の称号を得ることができたのだった。
思い出といえばそんなことくらいだった。決して戻りたい場所ではなかったが、やはり何かが詰まった場所でもあった。リュウは孤児院を最後に一目見ると小さく頭を下げて、歩き出した。別にどこいくあてもなかった。お尋ねものになってしまった自分が王の騎士になれるとも思ってなかったし、そもそもそんなものに未練もなかった。リュウが欲するのは力だった。この世界を生き抜く力だった。そんな力を探したいと思っていた。
リュウが山中を歩いていると前方になにやら人の集団が見えた。薄闇の中、目を凝らすと、十人を超える荒くれものが、それぞれ剣や斧を持って身構えているのが見えた。そしてその中に一人だけ場違いな格好をした金髪をオールバックにした少年がいた。
「――リュウ、俺に挨拶もなしで、こんな夜更けにマナハイムをこそこそ逃げ出そうってのか。そりゃねえだろ」金髪の少年が禍々しい笑みを浮かべて言った。
「――カイファか。お前こそ、こんな時間におかしな連中を引き連れて遠足にでも来たのかよ。子どもはもう寝る時間だぞ」
「リュウ、お前また街で騒ぎを起こしたらしいな。署長のやつ、お前を八つ裂きにしてやるとえらい剣幕だぜ」
「そうか――やっぱりペニスだけじゃなく、体も切り刻んだ方が良かったみてえだな」
「お前をやつに手渡してやってもいんだが、それじゃ俺の気が収まらねえ。お前を八つ裂きにするのは俺がやってやろうと思ってよ」
リュウは鼻で笑った。
「お前は、俺を八つ裂きにするのにも人手を借りねえとできねえのかよ。相変わらず、情けねえ野郎だな。しかも、こんなかすみてえな連中を集めれば俺を殺せるとでも思ってんのか、ほんと笑わせるぜ」
「いきがってられるのも今のうちだ。おい、こいつをぶち殺せ」カイファが言うと、男たちがリュウを取り囲んだ。
リュウは周囲を見据えた。ざっと二十人ほどに囲まれていた。しかし不安や恐れは一切感じなかった。リュウはすらりと剣を抜いた。それを見たカイファの左にいた無頼漢がいきなり刀を振り上げ襲い掛かってきた。しかし何があったのか知る暇もなく、男はどうと倒れた。リュウの剣が男の喉を貫いていた。驚くべき剣速であった。それを見たカイファの右にいた男が狂ったような喚き声をあげて躍りかかっていったが、それも一瞬にして倒された。いつの間にかカイファの顔からは笑みが消えていた。
「おいお前ら、やっちまえ! なにしてんだ、こいつをぶっ殺せ!」
しかし、周りの男たちはリュウの斬撃のあまりの鋭さに足が動かせないでいた。リュウは、男たちを見ると低い声で言った。
「――おい、お前らはどうせ金で雇われたんだろう。俺を殺した金で酒でも食らって女でも抱きに行こうとでも思ってたのかよ――まさか、こんなとこで死ぬなんて思ってもみなかったろうな。こんなはずじゃなかったって面だな。だが俺は容赦しねえぞ。こいつもくずだが、てめえらも同じ穴の貉だ。誰一人生きて帰れると思うなよ」
その言葉が終わるや否や、リュウは駆けていた。鋭い突きが男の喉を貫いた。その一瞬の後には、その切っ先は別な男の目玉に突き刺さっていた。
リュウの剣技は我流だった。あえて言えばリュウの師匠は自然そのものだった。無駄な動きを省き、一瞬にして敵を仕留める。それはまさに獣や昆虫たちの動きそのままであった。一瞬にして相手の懐に飛び込み、必殺の一撃を放つ。そういう意味では捨て身の攻撃と言っても良かった。突きをかわされたら、それで終わり。手を伸ばし、体を伸ばし、無防備に頭を晒した姿態では相手の剣を受けようがなかった。外したら死ぬ。その覚悟を持った突きだった。だが、そのことになんの迷いも持ってはいなかった。だからこそ、その突きは信じられないほど速かった。
あっという間に三人が倒れた。この間、わずか五秒もなかった。周囲を取り囲む男たちの眼は明らかに脅えの色に染まっていた。誰もが二の足を踏んでいた。リュウは知っていた。多数の人間を相手にする場合はまずは相手の勢いを止めることが大事だということを。こんなはずじゃなかったという思いが集団に蔓延し、その集団はたちまち臆病者の群れに成り下がる。男たちはもはや敵とも言えなかった。ただのびくついた野良犬どもに過ぎなかった。リュウはぶるぶると震えながら刀を構える男どもを一人一人瞬殺していった。そして、あっという間にカイファ一人を残すのみとなった。
「――おい、お前ひとりになったぜ」
リュウは血に染まった剣を握り返すと、カイファの前に歩み寄った。カイファの口はがくがくと震えていた。何か言おうとしているようだが言葉が出てこないようであった。
「おい、お前の父親はこの街の知事だったな――お前の親父はそれなりに力があったぜ。うちの孤児院に圧力をかけて、見事に俺を追い出したんだからな。だがお前はなんだ。力もねえくせにいきがってばかりだ。おい、金で俺を殺せると思ったか」
リュウは剣をカイファの喉に突き付けた。カイファは相変わらず顎を震わせて、何を言いたいのかさっぱり分からなかったが、とうとう蟹のように泡を吹き始めた。
「おい、ろくに口もきけねえのかよ。本当に情けねえ奴だな――おいカイファ、お前、生きてる価値ねえよ」
その言葉と共に剣がカイファの喉にぐさりと突き刺さった。カイファの眼は大きく開き、口から噴き出る泡に血が混じった。そしてカイファはそのまま後ろに倒れた。
男の死体が二十以上転がっていた。おそらく明日には警察が発見して、リュウの仕業と断じるだろう。今後、リュウは法を犯したものとして追われる身となる。だがリュウの心はそれほど暗くはなかった。ようやく自分一人で歩けるときが来たのだ。誰の言うことも聞くこともない。誰に膝まずく必要もない。生きたいように生きる。ようやくそれができる。だが、好きなように生きるためには責任も負わねばならない。自分がした行為の責任を。それが自由であることの代償だ。こうして、リュウは自由への道を歩き始めた。