雨が降っていた。
その雨はレインハルトの体を濡らしたが、レインハルトは雨が降っていることすら気づいていなかった。レインハルトは、自分が目にしているものが信じられなかった。レインハルトの前には小さな墓石があり、そこにはエリザと刻まれていた。
あの美しい、可愛らしい、エリザはもうどこにもいなかった。食事の後には美味しい紅茶をいれてくれた。エトや神の御使いのもとで学ぶ自分をいつも温かい眼で見守ってくれた。たまの休日に二人だけで出かけていき、匂い立つような花畑の中で抱きすくめると、エリザは恥じらいながらも身を任せてくれた。その彼女はもうすでにこの世にはなく、こんな小さな墓石の下で眠っているのだ。レインハルトは立っていることができず、思わず膝をついた。そして、まるでエリザに触るように墓石に手を添えた。だがその墓はエリザの柔らかく暖かい肌とは似ても似つかないほど、ごつごつとして冷たかった。
その時、いつ来たのか、エトがレインハルトの肩に手を置いた。
「――レインハルトよ、これも運命だったのだ。エリザはお前が勝利することを最後まで祈っていた。我が国が勝ったとの知らせが届いたとき、エリザはようやく安堵したように目をつぶり、まるでお前がそこにいるかのように幸せそうな顔で息を引き取ったのだ」
レインハルトはエトの言葉を聞くと、思わず叫んだ。
「どうして、知らせてくれなかったのです――いや、あなたは預言者エト。こうなることは分かっていたはずだ。だったらなぜ私をイラルのところに行かせたのです! エリザはあなたの大事な孫ではありませんか! あなたはエリザを愛していなかったのですか!」
レインハルトは非難するように、いや憎しみすら抱いてエトの顔を見た。だがレインハルトはエトの顔を見た途端、言葉が止まった。エトの顔は苦渋に歪んでいた。それは到底人間が耐えることのできぬ重荷を背負わされた年老いた男の姿だった。
「……レインハルトよ、神の御心は我々人間には測り知ることができない。だが、神はその必要があると思われたから、お前をイラルのもとに行かしめ、そして、エリザの命をお手許に呼び戻されたのだ。全ては神の御意思によるものなのだ……」
エトの声は少し震えていた。ようやくレインハルトにも分かった。エトがどんな思いでいるのかを。目に入れても痛くないほど可愛がっていた、どんな宝にも替えがたい愛しい孫娘をエトも失ったのだと。だが、頭ではなんとか理解したが、レインハルトの心はまだその痛みに耐えられなかった。レインハルトは何も言わずその場を去った。そしてエトのもとを去り、ウルクを離れたのだった。
「――こうして、私はエトのもとを離れ、一人山奥に居を借りて住むようになったのだ」
レインハルトはリュウを見て小さく笑った。
「……あんたは、そのエリザって人を愛していたのか」
リュウは、真剣な目でレインハルトを見た。
「ああ、私はエリザを愛していた。いや、今でも愛している。今でも心の底から愛している」
レインハルトが語る言葉には強い思いがこもっていた。その強い思いが、リュウにある女性を思い出させた、マナハイムのあのサラを。サラは孤児院出のリュウを見ても嫌な顔をせず、同じ人間として接してくれた。同じ人間として普通に笑顔を見せてくれた。リュウは、サラに会いたいためだけになけなしの金をもって、いつも酒屋に通った。口下手なリュウは、自分の気持ちをうまく伝えることなどとてもできなかったが、それでも軽口を叩きあいながら話するのがとても楽しかった。あの狂った署長のリンチに遭ったリュウの前で、サラは一人の人間として誇りをもって自ら死を選んだ。一人の女性として、リュウを好きだったと言い、口づけを交わして死んでいった。リュウは、サラが自分の足元を抱きかかえるようにして息絶えたときのことを思い出した。あの時、自分の胸に去来した激情を思い出していた。
レインハルトは、何かを思いつめているようなリュウを暖かい目で見守っていたが、再び話し始めた。
「わたしは、ウルクから少し離れた山の中で暮らし始めた。エトを恨む気持ちはなくなっていたが、エリザの思い出が残る家で暮らすのは辛かったのだ。それに私を英雄だの伝説だのと叫ぶ人たちの歓声に応えるのが辛かった。すべては神がなされたことなのだ。神こそ讃えられるべきなのだ。わたしは、人里離れたところに住むことによって、なるべく人と会わないようにした」そこまで言うとレインハルトは少しの間黙ったが、しばらくして、ぼつんと呟いた。
「――いや、もしかすると私が一番離れたかったのは神なのかもしれない」
そう語るレインハルトの横顔をリュウはじっと見つめていたが、改めて見ると、その顔には深いしわがいくつも刻まれていた。
「わたしは鳥や獣たちとともに暮らし始めた。それは寂しい暮らしだったが、心から安らげる暮らしでもあった。初めの頃はエトやヨセウス国王からよく手紙が届いたがどうしても私はウルクに出ていく気が起こらなかった。そんな私の気持ちを察してくれたのか、次第に手紙も遠のき、私は森の中に一人、鳥の声を聞き、獣たちと遊びながら隠者のように暮らしていたのだった。そうしていつしか十四年の月日が流れていた。そんなある日のことだった。私が山菜を取りに森に入ってしばらく歩いていると、先の方に妙に明るく光っているものを見つけたのだ。私は不思議に思い、その光っている方に歩いていった。すると、そこは少し開けた窪地になっていたのだが、なんとそこには、あのエリザが立っているではないか。しかも、昔とちっとも変わらず、花のように美しい姿で私の前に現れたのだ」レインハルトはまるで夢の続きをみているように、目を細めてどこか遠いところを見つめていた。
レインハルトは自分の眼が信じられず、しばらくは動くこともできず、声を出すこともできなかった。すると、エリザがゆっくりと近づいてきて、レインハルトの前に立ち、優しく頬を摩った。レインハルトはエリザのその柔らかな手を取ると震えるような声で言った。
「……エリザ、お前は本当にエリザなのか」
エリザは、その言葉ににっこり微笑んだ。
「レインハルト、あなたは何も変わっていないのね」
「何を言うんだ、エリザ。私は年を取った、何もかも捨て去ってしまった――もはや聖騎士たる資格もない」レインハルトはエリザの手を取りながら寂しく笑った。
「レインハルト、あなたは昔とおんなじね。あなたはいろいろなものが見えるのに自分のことだけはちっとも見えていない」エリザはそう言うと、くすっと笑った。
「レインハルト、あなたの体からは昔と同じようにまばゆいばかりの光が溢れている。今でもあなたの魂は気高く、誇り高く輝いている。レインハルト、私が愛したレインハルト、あなたは何も変わっていない」
レインハルトはそういうエリザを見て、少しうつむいた。
「エリザ、私は君を置いて、戦いに赴いてしまった。君が辛く寂しい思いをしているときに一緒にいてあげられなかった」レインハルトの声は震えていた。
「そんなことない。あなたは、ずっと私の隣にいてくれた。あなたは、いつもその優しい目で私を見つめてくれていた。私は幸せだった。私の愛する人が、私の大好きなこの故郷を守るために、聖騎士として戦っている。そう思っただけで私は誇らしかった。私は幸せだった」
そう語るエリザの瞳は涙で潤んでいた。それは宝石のように美しく輝いていた。レインハルトはエリザを抱きすくめた。
「エリザ、私はもう君を決して離さない」
エリザもレインハルトの背に手をまわして、同じように強く抱きしめた。そして心からうれしそうにつぶやいた。
「――レインハルト、お願いがあるの。私の代わりに一人の女の子を救って欲しいの。その子は、今、暗闇の中にいる。その子を私だと思って、あなたの愛情を注いであげてほしいの」
レインハルトは自分の耳が信じられないようにエリザの顔を見た。
「君はまたわたしを置いて行ってしまうと言うのか! いやだ、わたしはもう君と離れたくない、君が天に戻るというなら、わたしも一緒に行く」
レインハルトはまるで子供のように駄々をこねた。
「レインハルト、私たちはいつも一緒よ。だけど、あなたにはまだ大事な仕事が残っている。あなたは最後まで戦わなければならない。あなたならそれができる――だけど、その戦いが終わったら、あなたがこの世界で精一杯生きたら、その後は私たちはずっと一緒、もう絶対に離れない」
そう言って、エリザはレインハルトの胸に顔をあてた。そして、つぶやくように言った。
「その子は明日、この森の北の荒野を一人彷徨っている。レインハルト、お願い、その子を救ってあげて。その子の名前はリオラ」
その言葉とともに、ふっとレインハルトの腕の中にあった質量が消え失せた。レインハルトははっとして辺りを見たがどこにもエリザの姿は見つからなかった。
家に戻ったレインハルトは自分がたった今体験したことは夢だったのかとも思った。だがどうしてもレインハルトは、エリザの言葉を疑うことができなかった。一睡もできずベッドで寝がえりを打ったレインハルトは日が昇る前に旅支度をしていた。そして、鳥たちが朝を告げると北の荒野へと急いだ。
草木一本はえていない荒涼たる大地、薄雲がかかり、日が昇っているはずなのに、妙に薄暗かった。レインハルトは、その荒野を一日中歩き回った。その姿はまるで何かに憑かれたようであった。
そして、いよいよ日も暮れて、宵闇が迫ろうと言う頃、視界の先に一人の女の子が下着姿のままでふらふらと歩いているのが見えた。レインハルトはその子のもとへと走った。そして、意識も朦朧として、今にも倒れそうなその少女を抱きしめた。するとその子はきちがいのようになって暴れた。だがレインハルトはその手を放さなかった。必死になってもがくその子をずっと抱きしめ続けた。そしてずっと耳元で囁き続けた。
「もう、決してお前を離しはしない」と。
その子は、いつの間にかレインハルトの腕の中で眠っていた。それ以降、その子はレインハルトと一緒に暮らすことになった。それがリオラだった。