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【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(十六)

「上條は――いや、拓己と上條は本当の天才でしたよ。自分でこんなこと言うのもなんですけど、僕だって地元では常に一番だったし、入学が決まった直後は周りから散々誉めそやされて、自分は天才だなって思ったこともありました。だけど上には上がいるんですよね――ねえ刑事さん、本当の天才ってどんな奴だか分かります。テストの点数がいいとか記憶力がいいとかそんなことじゃないんですよ。本当の天才っていうのは、ものごとの本質を把握する能力が桁違いに優れている人間のことをいうんですよ」

「ものごとの本質?」浩平が不審げな顔をするのを楽しむかのように、佐々木が言った。

「例えば社会ってどんな形をしているか分かりますか?」

「社会の形ですか?」浩平は首をひねった。

「ええ社会です。社会っていうのは、ある意味抽象的な概念です。形なんてあるわけないって思いますよね。でも形はあるんです。その形が二次元なのか三次元なのか、もっと高い次元の世界なのかそれは分かりません。でもあるんです。なぜって、社会には因果法則が成り立つからです。社会の構成員たる我々が何かを思い、何かを為せば社会には必ず変化が生じる。つまり、ある種の方程式が成り立つってことです。そういう世界には解が――答えが存在するんです。天才ってのは数学的、物理的な事象だけでなく、社会とか宗教とか、あるいは感情だとか自我だとかそんなものですら、それがどんな形をしていて表面にはどんな凸凹があって、中身はどうなっているとか、そういうことを一瞬にしてイメージできるやつのことを言うんですよ。参考書見ながら必死こいて問題解いてるような俺たちとは違って、ありえない角度から問題を眺めて、想像もできないようなアプローチで答えを導き出すことができる、そういうやつを天才っていうんです――あいつらはそういうやつらでした。あいつらと一緒にいて、始めて自分が単なる凡人なんだって気づかされましたよ――一度、ゼミの授業で自我を人間が人工的に作り出せるかってテーマであいつら二人が討論した時がありましたけど、カオス理論から素粒子論、エントロピーまで持ち出された時には何が何だかさっぱり分からなくなって――あのときは全く話についていけない自分が本当に嫌になりましたよ」佐々木はその時を思い出したかのように苦笑いした。

 

多次元構造

 

「そんなゼミには僕も出席したくないな」浩平も苦笑いしながら相槌を打った。

「まあ、とにかく二人は性格や考え方なんかも結構近かったってことですか」相変わらず友達に話しかけるような口調で浩平が尋ねた。

「まあ、少しタイプは違いましたけどね」

「どういうところが?」

「さっきも話したように拓己はとにかく現実を直視する男でした。あいつがニーチェに関心をもったのは、ニーチェの説く思想こそがこの世界を正しい方向に導くための道しるべだと確信していたからです。だからあいつは自ら率先してそういう道を歩み、社会に変革を促す旗手たらんとしたんです。そういう意味ではあいつは現実を非常にリアルに捉えていて、社会を変えるには現実と妥協する必要もあるっていうことをある程度理解していました。だからこそ既存の社会の枠組みの中で力を得て、その力で社会を変えていく方が有効だと考えたんです。まあプログラミングが好きなくらいだから、もともと実用的な性格だったんだと思いますけど」

 佐々木の話を聞いていた桜は捜査本部のホワイトボードに貼られた宮澤の相貌を思い出した。佐々木ほど浅黒くは無かったが宮澤もほどよく日に焼け、真っ黒な短髪が良く似合う男だった。広いおでこと引き締まった口元は強い意志を感じさせたが、少し先を見ているような大きな瞳には人を引き付けるなんとも言えない魅力があった。社会に変革を促す旗手、確かに彼ならそれを成し遂げることができたかもしれないと桜は思った。

「それに比べると上條はちょっと違ってましたね。あいつもニーチェの思想を現実の世界にいかそうという点では宮澤と同じ考えでしたが、どうやって実現していくかという手法については、だいぶ意見が異なっていました。あいつは理想を高く掲げるタイプだったので、自分の理想と大きなギャップがある現実の社会形態や制度についてはかなり手厳しく批判していました。だから宮澤のように現実と妥協して社会を変えていくなんてやり方では本当の変革は達成できない。ある程度の混乱はあっても一度既存の仕組みを壊して新たに作り直す方が、結局は理想的な社会を創造する早道だと主張したんです。まあ学生らしい青臭い考えって言えばそうなんですけど、あいつの場合は心底純粋な気持ちで言うから聞いてる方も妙に納得してしまうんですよね」

「なるほど――それじゃ、意見の相違で喧嘩したなんてこともあったんですかね?」

「喧嘩? 拓己と上條がですか? そんなことはありえませんよ」佐々木は笑った。

「そりゃ、激しく意見をぶつけあうことはよくありましたけど、それはあの二人にとって最高の時間だったんじゃないんですかね。あいつらにしてみれば人生で初めて自分の理解者を見つけたような気分になったんだと思いますよ。特に上條にとっては」

「どうしてですか?」浩平が不審げに聞いた。

「いや、上條は誰からも好かれる本当にいい奴なんですけど、唯一の欠点は自分の感情を吐き出すのが下手なことなんですよ。ゼミでは自分の考えを滔々と話すくせに、授業が終わればいつもにこにこしてみんなの話を聞いているだけで――お前もたまには文句の一つも言えばいいんだよって忠告しても、あいつは笑うだけで。だから友達はたくさんいたと思うけど、本当の気持ちを言えるやつがあいつにいたかって聞かれるとほとんど思いつかないんですよね。でも拓己とはよく話し込んでましたから、たぶん拓己だけには本当の自分を出せたんじゃないんですかね」

「そうですか――でも確か、上條さんは田口さんとも仲が良いと聞きましたけど」

 浩平がそう言った途端、佐々木はびっくりしたような顔つきになったが、次第に苦々しい面持ちに変わった。

「あいつ自身でしょう。そんなことを言ってるのは。あいつは口先だけの小心者ですよ。あいつの言うことを真面目に聞いてやってるのは上條だけだから、田口が勝手に親友ぶってるだけですよ。飯食いに行くにも授業行くにも、なんでも押しつけがましく誘ってましたからね。昔、俺が上條と話してた時に田口が現れて――俺はあいつのことは無視して上條としゃべってたんですけど、何かの拍子にチラッと田口の顔を見たら、俺のこと凄い目で睨んでましたよ。なんていうか憎悪さえ感じました。ある意味ストーカーですよ、あいつは」その口調からは、佐々木が心底田口を嫌悪しているようすがありありと伺えたが、浩平は敢えて気づかないふりをした。

「そうなんですか。じゃ上條さんも田口さんのことをよく思ってないんですかね?」

「いや、そこが上條の良いところっていうか、誰でも受け止めちゃんですよ。だからみんなに好かれるんですけどね。ま、はっきりしてるのは、もし上條がいなかったら、田口はゼミで完全に浮いてたでしょうね」

 浩平と桜は目を見合わせた。田口が上條に対して狂信的と思えるほどの親愛の情を示す理由がようやく理解出来たような気がした。

 

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