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【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(三十三)

 ノートパソコンの画面上にはインターネットの掲示板が開いていた。

――今度の週末、不浄のまち新宿は真っ赤な鮮血によって、洗い清められる――という例の投稿の後には、嫌悪と礼賛の言葉が山のように連なっていた。男はそれらの投稿を一つ一つゆっくりと眺めながら時には不機嫌に、時には喜悦の表情を浮かべながら、それらに見入っていたが、ある投稿が目に入った。

――ツァラトゥストラがなそうとしているのは破壊ではない。浄化の道なのだ。私はツァラトゥストラの弟子となり、彼と同じく新たな社会の創造に携わりたい――

 男はその投稿に目を奪われた。ツァラトゥストラの思想を理解するものたちがこの世の中にはまだまだたくさんいるのだ。そう思った男はすっかり有頂天になった。思わず、自分も何か書きこみたい衝動に襲われたが、なんとか押し止めた。自分の家からネットに書き込みなどすれば、すぐに警察にばれてしまうくらいのことは男にも分かっていた。

 もしかすると自分は既にマークされているのかもしれないとも感じていた。だが、不安な思いとともに一種のスリルにも似た興奮をも感じていた。まるで、自分が大舞台の主役にでもなったような気分だった。せっかく主役になったのだからせいぜい観客を楽しませなくては。そう思いつつ、そういう自分が一番楽しんでいることに気づいて男は苦笑した。

 上機嫌になった男は冷蔵庫から飲み物をもってこようと立ち上がった。その時、玄関のあたりでがさっという音が無骨に響いた。男の体は瞬間的に凍り付いた。しばらく黙ったまま突っ立っていたが、ようやくその音が郵便受けに何かが差し込まれた音だと気づいた。

 男は恐る恐る玄関に近づくと玄関受けからチラシを取り出し、怒りに任せてごみ箱に投げ捨てた。急に不愉快な気分になったがすぐに気を取り直した。今日は特別な日なのだ。主役がいなくては舞台は始まらない。そう思った男はパソコンを閉じると、机の上に置いてあった買ったばかりの出刃包丁をじっくり眺めた。出刃包丁の刃文がライトを浴びて怪しく光っていた。男は、陶然としたようにその出刃包丁を眺めていたが、不意に我に返ったように、タオルに厳重にくるんで用意していたリュックサックにいれた。

 さあ、用意は全て整った。ツァラトゥストラの偉業を待ち望むものたちよ、再び幕が上がる。しっかりと見るがいい。超人が示す道とはいかなるものかを。

 男は不敵に笑うと、扉を開けて、喧騒渦巻く街へと歩みだしていった。

 

 浩平と桜は上條の家の近くの路上に駐車しながら張り込みをしていた。結局、例の投稿の発信者は特定できず、警視庁上層部で協議がなされた結果、この週末の間、内藤ゼミのOB全員を尾行し二十四時間体制で監視することが決定されたのだった。

「あっ、上條が出てきました」桜が小声で叫んだ。

 浩平がそちらを見ると、白い開襟シャツに黒のスラックスといういでたちで階段を降りる上條の姿が見えた。

 浩平は少し考えたのち、「俺は歩いてやつを追う。お前は本部にこのことを連絡して、今後の指示を仰げ」と言うと、桜の返事も聞かずに車から飛び降りた。桜は上條の後を追う浩平を心配そうに眺めながら無線機を手に取った。

 十時を過ぎて、大気はぬるま湯のようにゆだってきた。浩平の体からは既に大粒の汗が噴き出ていたが、上條は暑さも感じさせず、颯爽と通りを歩いていた。

 帝都大学に通じるこの道は帝大生と思しき学生がたくさん歩いていたが、上條はまだ学生と言っても違和感がないほど、この町の風景に溶け込んでいた。地下鉄の出入り口がある交差点に近づくと、さらにたくさんの学生があふれ出てきて、信号前の交差点は学生で埋まった。浩平は上條を見失うまいと集団の中を掻き分けたが、どういうわけか白いシャツと黒いスラックスを履いた上條の姿はその中には見当たらなかった。浩平は一瞬焦ったが、もしかしてと地下鉄の出入り口に戻り下を覗いた。すると、階段を降りていく上條の姿が垣間見えた。浩平はほっと息を吐くと急いで階段を下っていった。

 駅のプラットフォームにはちょうど新宿方面行きの列車が到着したところで、上條は足早にそれに乗り込んだ。浩平も別な乗車口から列車に飛び乗ると、混雑する車内を掻き分け適当な場所に位置を占めた。列車が停まるたびに乗客は増えていき上條を確認することも難しくなってきたため、浩平は車を飛び出すときに持ってきたサングラスをかけると少しづつ移動しながら大胆にも上條の真後ろに陣取った。暑さと汗の匂いが充満する車内でへし合い押し合いしながら揺られるのは東京の列車事情に慣れているはずの浩平ですらげんなりする思いだったが、目の前の上條は何を思っているのか静かにその場に立っていた。

 しばらくして、次の到着駅は新宿とのアナウンスが流れた。浩平は上条を見失わないように気を付けながらドアが開くのを待った。ドアが開くとどっと群衆が飛び出し、プラットフォームは人で埋まった。浩平は、なんとか上條を視界に置きながら後を追いかけたが、ここではたと困惑した。てっきり、このまま外に出るものとばかり思っていたのだが、上條は駅ビルの中を進み、小田急線の改札を通って行ったのだ。浩平は一瞬躊躇したが、考えるのは後とばかり即座にその後を追った。

 下りということもあり、小田急線の車内には空き座席もちらほらとあり、浩平は上條の車両とは別の車両に乗り込み、上條の行動の意味を考えていた。どこかで用事を済ませて新宿に向かうつもりなのか、それとも誰かと会うつもりなのか。しかし、そんな浩平の思いをよそに、上條は目を閉じてひたすら黙って座っていた。

 電車に乗って一時間半ほども過ぎたろうか、上條が立ち上がった。車内に次の停車駅のアナウンスが響くと、浩平はようやく上條の行動の意味を理解したような気がした。神奈川県西部のその町は宮澤拓己の故郷であった。

 

小田急線

 

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