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【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(五十二)

 浩平は百合子の家を辞すと、教えてもらった上條の実家の方に歩き出した。もう誰もいませんよと百合子は止めたのだが、一目だけでも上條の実家を見てみたいと思い、寄ってみることにしたのだった。

 百メートルほど歩いたところで後ろからクラクションが鳴った。振り向くと絵梨の軽自動車だった。絵梨は窓をあけると、「乗って」と浩平に言った。浩平は一瞬躊躇したが、好意に甘えることにして車に乗り込んだ。

「この辺りは車がないとどこに行くのも大変なんですよ」絵梨は助手席に座った浩平に笑いながら言った。

「絵梨さんは、ずっとこちらに?」

「高校を卒業して二年間だけ盛岡の看護学校に行きましたけど、今はこの近くの病院で働いています」

「そうなんだ」浩平が相槌を打つと、絵梨は小さくつぶやいた。「――なるべく母の近くにいたいんです」

 浩平は絵梨の気持ちがなんとなくわかるような気がして、うんとうなずいた。

 少しの沈黙があったのち、絵梨が突然、「宮城さんって、あのツァラトゥストラと戦った人ですよね」と尋ねてきた。

「えっ――まあ、そんなところで」浩平は思いがけない質問にうろたえながら、答えになってないような答えを返した。

「やっぱり! 一目見てそうだと思いました。私も非番だったからずっとテレビで見てたんですよ」絵梨は快活に言った。

「それじゃ、がっかりしたろ。こんな奴が警視庁の代表とかいって、コテンパンにやられたんだから」浩平が自嘲気味に言った。

「そんなことないですよ。私は宮城さんをずっと応援してましたよ。あんなのその場だけの勢いですよ。私があの会場にいたら全員黙らせてやったのに」絵梨は憤慨気味に言った。

 浩平は、そういう絵梨を見て少し笑った。

「どうしたんですか」

「いや、君に似た部下が一人いてね。そいつもたぶん、君と同じこと言っただろうなって思ってね」

 絵梨はハンドルを握りながら言った。

「宮城さん、ツァラトゥストラに一回負けたくらいで諦めないでくださいね、私は宮城さんの味方です。私の周りの看護師も結構宮城さんのこと応援してるんですよ。私のタイプだなんて言ってる人もいるんですから」そう言って、絵梨は浩平にウインクした。そして、「宮城さんは一人じゃないんです。宮城さんのこと、応援している人はたくさんいるんですよ」と明るく言った。

 それを聞いて浩平は苦笑した。なんだか本当に横に桜が隣に乗っているような気がしてきた。だが絵梨が言った一人じゃないという言葉は浩平の心に新鮮に響いた。浩平はこの数日、ずっと孤独だと感じていた。全ての重圧をたった一人で背負っているような気がしていた。だがこうして自分を応援してくれる人がいる。自分の知らないところで自分を支えてくれる人がいる。それは浩平にとって新しい発見だった。

 

「ほら、ここが和仁さんの実家ですよ」そう言うと、絵梨は古びた農家の前に車を停めた。

 浩平と絵梨は車を降りると農家を見上げた。かなり大きいがだいぶ傷んでおり、人の気配はなかった。浩平と桜は家を眺めるように周囲をぐるっと周った。

「ここで、かずちゃんとザリガニを取ったんですよ。懐かしいな」家の裏手の田んぼ脇の土手を歩きながら、絵梨が言った。目の前には田んぼが広がり、その奥には焼石の山々が雄大に聳えていた。

「ここはこの時期、凄い綺麗なんですよ。黄金の海原みたくなって。よく、かずちゃんとここに座って、飽きもせずずっと眺めてたんです」絵梨が昔を懐かしむように言った。

 この辺りは今が刈入れの盛期と見えて、農家が熱心に作業にいそしんでいた。とは言っても、まだ半分ほどは稲穂が残っており、黄金の稲穂がはるか遠くに聳える焼石岳までずっと続いていた。それは確かに黄金色の大海原を見ているような気分だった。

「――綺麗だな」浩平が言った。

「――ええ」絵梨も静かに頷いた。

 日暮れが迫る焼石岳の方から爽やかな風が吹いてきた。その風は優しく浩平と絵梨を包み込んだ。二人はしばらくその場に立ち続けた。

「宮城さん」不意に絵梨が浩平の方を振り向いた。そして、それまでとは打って変わったような真剣な表情で浩平に迫った。

「かずちゃん、いや、和仁さんを助けてあげてください。あの人、何か大変なことに巻き込まれているんです」

 浩平は絵梨の顔を見つめた。そして「話してくれないか」と優しく言った。

 絵梨は再び焼石岳の方に向き直った。

「あれは叔母の三回忌が終わった夜のことでした。法要も無事終わって片付けも済んだので、私と母は和仁さんを連れて家に戻ったんです。そしたら和仁さん、忘れ物をしたから、ちょっと実家に行ってくるって言って出かけました。晩御飯までには帰ってくるからと言って出て行ったのに七時を過ぎても帰ってこないので、私は車で迎えに行きました。車から降りると仏間の方の電気がついていたので、そこにいるんだと思って中に入っていきました。案の定、和仁さんは仏壇の前に座っていました。私は声を掛けようとしたんですけど、どこか様子が変なんです。私何か怖いものをみるような思いで、陰の方からこっそり見つめていました。そしたら和仁さん『母さん、僕はとんでもないことをしてしまった』って絞り出すような声で言うと体を震わせて泣き始めたんです。私、それを見た瞬間、どうしたの、何があったのって飛び出していきました。そしたら和仁さん、びっくりしたような顔をこちらに向けて――でも、私の顔を見るとまた涙を浮かべて『俺、とんでもないことをしてしまった』って、そう言うんです。私、何度も何度もどうしたのって聞いたんです。でもあの人、体を震わせたまま黙ったきりで――逆に私の方が泣き出してしまって――和仁さんは私を連れて外に出ると一緒にこの場所に座りました。そして、私が泣き止むまでずっと私の背中を擦ってくれたんです」

 

 隣で絵梨がすすり泣いていた。和仁は優しい眼差しで絵梨の背中をさすっていた。
 ポツンポツンと離れ小島のような家々の明かりが残るだけで外はすっかり暗くなっていた。だが月夜でもないのに外は妙に明るかった。和仁は空を眺めると思わず目を見張った。

「絵梨ちゃん、ほら見て、星が凄いよ」

 絵梨はハンカチで涙を拭いていたが、和仁に誘われるように顔を上げると思わず目を見開いた。それは、まるで星の海だった。星が天上を埋め尽くすように光り輝き、空を明るく照らしていた。絵梨はその圧倒的な光の束に包まれ、泣くのを忘れた。

「絵梨ちゃん、宇宙って凄いな。この宇宙にはどれだけの星があるんだろう。赤い星、青白い星、黄色い星、ここからは見ることのできない星たち、たくさんの星があるけど、みんなちゃんと理由があって、光を放っているんだ――」和仁は嘆息するようにつぶやいた。

「でも、あの星たちにも寿命があるんだ。信じられないくらいの長さだけど、やっぱり寿命があって、いつか消えてしまう。だけど、星たちは決められた時間の中で一生懸命、自分を燃やし続け、ああやって美しく光り輝いているんだ」そしてポツンと言った。「――僕も、そういう風に生きてみたいんだ」

「かずちゃん、一体、どうしたの」絵梨は和仁の方を向いて言った。絵梨の目にはまだ涙がたまっていた。涙にうるむその瞳は天空の星のように美しく光っていた。

 和仁は絵梨の両肩に手を置くと、「絵梨ちゃん、どうかお願いだから今日のことは黙っていて欲しんだ。いつか話せるときがきたら必ず話す、一番に話す。だから今日のことは絶対に誰にも言わないで欲しいんだ」と哀願するように言った。

 絵梨は和仁が震えているのが分かった。絵梨は和仁の体をぎゅっと抱きしめると静かに言った。「絶対に言わない。誰にも言わない――だけど、必ず、必ず帰ってきてね」

 

満天の星空

 

「私は、今日まで誰にもそのことを話しませんでした。でも、あの人の身になにか大変なことが起こっているんだってずっと思ってました。そして、あの事件が起こったんです。母から、東京の刑事さんから和仁さんのことで電話があったと聞いて、私はすぐにこのことだって気づきました」絵梨はそう言うと、改めて浩平の方に向き直り「宮城さん、どうかあの人を助けてあげてください」と必死になって懇願した。

 浩平は上條のために必死に訴える絵梨の姿を見つめながら、「どうして、そんな大事なことを俺に言ったんだ」とつぶやいた。

 絵梨は頭を振った。

「そんなこと、分からない。でも、あなたがツァラトゥストラと戦うところをみて、この人なら和仁さんを救ってくれるかもしれないって思ったんです。そうしたら、あなたが今日私の目の前に現れたんです。だけど、やっぱり言うか言うまいか、ここに来るまでずっと悩んでました――でも、さっき聞こえた気がしたんです。おばさんの声が」そう語る絵梨の顔は焼石岳に沈む夕日を浴びて、神々しいばかりに光り輝いていた。

「――おばさん?」浩平は絵梨の顔をみつめながら尋ねた。

「和仁さんのお母さんの声です。さっき、おばさんが、私にこう言うのが聞こえたんです――『和仁のことをお願いね』って――」

 

 浩平は駅まで送ってくれた絵梨に礼を言うと車から降りた。絵梨は車から降りると、浩平に深々と頭を下げた。浩平はそれに応えるように軽く会釈をすると駅に向かって歩き出したが、何か思い出したように振り向いた。

「その、俺のファンだとかいう看護師さんたちに伝えといてくれないかな。あの宮城って男は昔から、最後の三アウトになるまで決して諦めない男だって。そして試合はまだ終わっていない。九回裏の攻撃が残っているって」

 絵梨は浩平が照れくさそうにそう言うのを聞くと、急に元気が出たようにうれしそうに笑った。そして両手を振りながら叫んだ。

「頑張ってください! サヨナラ満塁ホームラン期待してますからね!」

 浩平は絵梨に手を振ると足早に駅に向かった。浩平の視線は既に東京を見据えていた。まだ、勝負は終わっちゃいない。待ってろ、ツァラトゥストラ!

 

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